Japanese Type 38 Arisaka, 7/7/2012(作成アメリカ合衆国) http://www.youtube.com/watch?v=GvkMgKNjDSE |
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Type 38 Arisaka Rifle 6.5x50SR(作成カナダ) http://www.youtube.com/watch?v=3WN2ixhwMB0 |
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WWII Japanese Arisaka Type 38 Carbine + Range Day(作成アメリカ合衆国) 女性の銃器マニアです。 http://www.youtube.com/watch?v=I3-Un0txxsI |
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Hornady Arisaka Rifle Challenge(作成アメリカ合衆国) 「Hornady」はアメリカ・ネブラスカ州にある弾薬製造会社。 そこの従業員による「三八式歩兵銃」の射撃大会。 1回戦/150ヤード = 137.16 メートル 2回戦/200ヤード = 182.88 メートル http://www.youtube.com/watch?v=Z-nsrOOdbak Hornady社、公式ホームページ(英語) |
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三八式歩兵銃 - Wikipedia 有坂成章 - Wikipedia 製造数、約340万丁。 使用国・組織 大日本帝国 タイ王国−大日本帝国が供与。 満州国−大日本帝国が供与。 韓国−日本軍が武装解除した物を一部使用。 朝鮮民主主義人民共和国−日本軍が武装解除した物を一部使用。 中華民国南京国民政府−大日本帝国が供与。 蒙古聯合自治政府−大日本帝国が供与。 中華民国−日本軍から鹵獲。 中華人民共和国−日本軍が武装解除した物を使用。 フィリピン第二共和国−日本軍が武装解除した物を使用。 ソビエト連邦−日本軍から鹵獲。 アメリカ合衆国−日本軍から鹵獲。 イスラエル−日本軍が武装解除した物をアメリカが供与。 北ベトナム−日本軍が武装解除した物を使用。 イギリス−日本軍から鹵獲。 オーストラリア−日本軍から鹵獲。 オランダ−日本軍から鹵獲。 マレーシア−日本軍が武装解除した物を使用。 インドネシア−日本軍が武装解除した物を使用。 ミャンマー−日本軍が武装解除した物を使用。 自由インド仮政府−大日本帝国が供与。 ビルマ国−大日本帝国が供与。 ベトナム帝国−大日本帝国が供与。 カンボジア王国−大日本帝国が供与。 ラオス王国−大日本帝国が供与。 カレン民族解放軍−日本軍が武装解除した物を今なお使用。 |
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海外の反応 大日本帝国陸軍 九九式軽機関銃 (Japanese Type 99 Light Machine Gun) |
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一つ目の動画 |
中国(30歳) 三八式歩兵銃は第2次大戦中の、最も精密精巧なロングレンジライフルです。できたら、もっと三八式歩兵銃の映像が見たいです。 |
アメリカ合衆国(22歳) ワオ!反動はかなり軽いように見えますね。 |
二つ目の動画 |
アメリカ合衆国(45歳) 素晴らしいビデオです!!! 五つ星以上です。素晴らしい! |
アメリカ合衆国(25歳) (上記のコメントに対して) オゥ!、なかなか上手いじゃないか。 三八式歩兵銃は最高の恐るべき武器のように見えるね。 |
アメリカ合衆国(26歳) 三八式は正確で信頼性の高い銃です。しかも、非常にタフで頑丈でした。 |
カナダ(31歳)/動画作者 (上記のコメントに対して) 戦前に作られた歩兵銃としては、非常に優秀な銃です。しかも、非常に精度の高い銃です。 |
不明/多分、アメリカ合衆国 素晴らしい射撃だ!君が撃っているところを、ただ見ているしかないというのが、ちょっとしゃくだね。 ところで、君の三八式はどこで手に入れたものなんだ? |
カナダ(31歳)/動画作者 (上記のコメントに対して) あっちこっちで、保存されていたものを寄せ集めて、修理して作り上げたものです・・・(笑)。 私の周りでも、三八式歩兵銃はそうたくさんあるものではありません。 |
アイスランド(26歳) クールだ! 前の人と同じ質問なんだが、三八式はどこでなら手に入る? 誰か売ってくれる人を知らないか? |
カナダ(31歳)/動画作者 (上記のコメントに対して) ほとんどいないとしか、言いようがないですね・・・。 |
カナダ(26歳) そのライフルには天皇家の菊の紋章が付いているのでしょうか? 私が尋ねた理由は、終戦時に日本軍が降伏したとき、天皇家の不名誉を防ぐために、この紋章を削ったと聞いたことがあるからです。 もし、紋章が残っているのであれば、非常に価値の高い銃だと思います。 |
カナダ(31歳)/動画作者 (上記のコメントに対して) ちゃんと紋章は付いています・・・。 |
アメリカ合衆国 勘違いしているヤツがいるが、タイプ38の38は1938年じゃないぜ。明治38年、1905年だ。日本の製造技術が遅れているとか言ってるヤツ。知識もないのにイチャモンつけるな! |
カナダ 私は天皇家の菊の紋章が付いている三八式歩兵銃を手に入れたい。アメリカ軍は戦後押収した銃を各国に再配布している筈なんだ。でも、ドイツ軍は鷲のマークやハーケンクロイツをそのまま残しているのに、日本軍のは菊の紋章を削っているんだよ。 |
ドイツ (上記のコメントに対して) アメリカ軍が菊の紋章を削ったわけではありません。日本軍自らの手で削ったものです。紋章が付いたままでは、天皇家の不名誉になると彼らは考えていたようです。 |
アメリカ合衆国(51歳) 私は内密で数丁の三八式を見たことがあります。私の隣人が一丁持っているのですが、彼のは7.7ミリの九九式です。 九九式短小銃 - Wikipedia |
ブラジル(21歳) 三八式は素晴らしい精度の非常に優れたライフルです。100%の命中精度を維持できます! |
アメリカ合衆国(20歳) 三八式でも九九式でも、どっちでもいいからこのライフルを手に入れたい。どちらかと言えば、7.7ミリの九九式の方が好みなんだけど。一丁、あったのだけれど、錆で破損していて、安全性に欠けるのでやめてしまった。 |
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2012年08月10日
海外の反応 大日本帝国陸軍 三八式歩兵銃(Japanese Arisaka type 38 rifle)
posted by 虚空に踊らん at 22:12| Comment(127)
| 大日本帝国陸軍
補修ばかりやってた」って言ってた。
部品調達もおいそれとできないし、何より陛下より賜りし…を壊したとなると
報告書を書くのが上も嫌だったから「できるか?」「できます」で度々直していたら
海外へ戦役に行くはずがその都度外されてそのまま終戦を迎えてしまったという。
いざ壊れても鍛造技術を持ってる人なら(その気になれば)
野戦地でも直せるのはすごいが、それだけ原始的な代物だったってことだな。
私が練成を受けた時点でも既に状態の悪い物があり、射撃を伴わない訓練で利用されていました。
そうした銃は終戦時に倉庫に忘れ去られて、その多くがアメリカ人による「おみやげ狩り」にあったといいます。そうした銃の末裔が、こうした画像に出てくる銃でしょう。
コメントで状態の良い部品を組み合わせて組み上げたとかかれていますが、残念ながら、38には部品の互換性が殆ど無く、破損した場合は他の銃の部品を組み合わせる際に非常に手間隙をかけた調整が必要となります。
排莢不良が何度も発生していますが、おそらく機関部の面取りを行っていないせいでしょう。角が立ったままの新品、或いは逆に、角が立ってしまった多数の射撃を行った部品が組み込まれているものと思います。
面を取って、ワッシャーなどをかまして、位置を調整し、蝋付けを行ってバーナーであぶって熱処理を行い、注意深く鑢をかけて、グリスで磨き上げましょう。そうすると快調に動くはずです。
と、彼らにアドバイスできればいいのですが……。
私は英語が出来ないので無理ですね。残念です。
動作がつっかえているシーンがありますが、我々は一切の動作で引っかかることなく滑らかに作動させることで不具合をなくしていました。
画像のような強引な動作では不調が発生して当然です。
レバーを強く引き過ぎると、後座状態で部品が座屈して(そうとうに強引な動作が必要であるが)、レバーが跳ね戻ったり、発火ピンが不時前動して暴発することがありました。そうなると排莢位置で機関部が開放されているので、大怪我に繋がります。
装弾された状態で、銃床に強い衝撃を与えると暴発事故に繋がるため、そういった点にも注意が必要です。
目と銃の後端部には拳一つ分を開けよというのが基本です。
万が一、後背発火事故が起きた場合、この位置ではまともに顔面を焼いてしまいます。
不時発火で機関部が破壊されても、十分な重さと頑丈さを持ったボルトが後方に飛ぶことは絶対にありえないので、死亡事故に繋がることはありませんでした。
左手も、手のひらで受け止めて軽く閉じ、決して握らずに、手を添える程度にしなければいけません。反動で手が抜けないような手がかりとして溝が切ってあるのです。そこに指が来るようにすれば、まったく力を入れることなく銃を保持することが出来ます。
後は腕の力を使い、肩口から固定して銃を振り回せば、いかなる姿勢でも視線と銃口の位置がぶれることなく、百発百中で目標を捉えることが出来ます。
白兵戦用にでかくしてあるとかみたいなデマが……
実際は低反動・長射程・高耐久力なのに
確か部品数が凄い少ないせいでかなり故障しづらいんでしたっけ?
あとメッキのおかげで銃身命数もかなり有ったはず。兵隊さんの過剰な整備のせいでメッキが剥げちゃったりもしたそうですが……
クリップを力いっぱい突きこむことによる機関部の損傷事故は敵も味方も、どんな種類の銃でも発生しており、戦場では基本的に一発一発手でこめることを推奨していました。慣れれば、クリップによる装填と変らない速度で装弾可能でしたし、トラブルの発生を抑える意味ではクリップは使わないほうが良かったのです。
またクリップによる装弾は、銃の姿勢を水平に保たないと容易に装弾不良に繋がりますので(モーゼル等もそうだった)、伏這姿勢など、無体な姿勢の場合も一発ずつ装弾するのが無難です。
またクリップを使用した装弾はかなり特徴的な動作姿勢であり、遠くからも良く見えますので、達者な敵がいた場合、真っ先に狙われる結果となります。
戦場で装弾時にまごついている敵は良い目標でした。
また一基数200発程度でも、クリップの重さは馬鹿にならず、そうした意味でもバラで持つことが普通でした。クリップは輸送箱に入れて後送しました。
或いは手榴弾に巻きつけて威力を増大させたりしました。
かなりえげつない威力を発揮します。
実物の稼働品を持ってるのは外国人のコレクターや博物館だと言う事
完璧に調整した状態のが日本にあっても良いようなもんだが
そのようなことはありえません。鍍金を何だと思っているのですか?グリースと布を使った外観整備程度で剥がれる様な鍍金は鍍金とは言いません。紙やすりでもかけたのでしょうか?それでも地金を出すのは困難だったでしょう。ぶつけたり砂場で引きずったり、爆風を浴びたりする兵器です。人の力程度で保護膜である鍍金がはがれるようでは兵器としては欠陥品です。
旋盤で削りでもしない限り鍍金をはがすことなど不可能ですし、そのような阿呆な兵はいませんでした。
大方、基地展覧等で輝くほど磨きこまれた銃を、鍍金がはがれて金属地が見えてしまっていると勘違いした人がいたのでしょう。それぐらいしか考えられません。
白兵戦用にでかくしてあるとかみたいなデマが……
実際は低反動・長射程・高耐久力なのに
弾丸の威力と反動、取り扱い、部品の耐久性。そうしたものをバランスした結果が38であると思います。
あの当時の銃はどこの国のものも似たような大きさでしたからあの時代の技術ではこれ以上小さく出来なかったのでしょう。
結果的に「重い」銃でしたので(扱う兵としては気にならなかったですが)カルカノ弾の低反動とあわせて非常に使いやすい銃でした。
大戦中のボルトアクション銃はちゃんとした整備を行える兵が使っている限り故障とは無縁でした。
ボルトアクション銃とはそういうものです。
末期に、バネの破断に悩まされたという話がありますが、おそらく後備兵向けや急速練成増備兵向けに倉庫で死蔵されていた銃を引っ張り出したせいでしょう。使っていない銃であればどれほど頑丈な物でも傷んでしまいます。
私は大陸で軽機ばかり扱っていたせいで、本来の99式歩兵銃の取り扱いが雑になってしまいましたが、1年ほどでボルトが折れてしまいました。
99式歩兵銃を取り扱っていた兵は、3年間、一切の部品を取り替えることなく、戦場整備のみで完動させていましたので、いかに普段の整備が大事であるかと思い知らされました。
結局、私にとって大陸での3年間は、軽機と私物のハイパワーのみが私の武器でした。
戦場狙撃では銃剣の使用は重要です。
銃口が重くなれば、その分動作が落ち着くので、狙撃の精度は飛躍的に上がります。
大陸の戦闘では敵が銃剣を装着することは殆どありませんでしたが、彼らが銃剣を装着していれば我々の死傷率は3倍は増えたでしょう。
それほどに銃剣は重要です。
信頼性を保持するために機関部に遊びがあり、左肩射撃を行うと顔面にガスを浴びる結果となります。
戦闘の状況によってはそういった無茶をすることがあったようですが、それにより鼻髭を焼いた者がいたという与太話もありました。
負けた日本人が武器を持っていてはそれこそおかしいでしょう。武装解除されて、敵軍に接収されるのが戦争ですよ。
物語で二年兵(古参?)が一年兵に自分の銃整備を命令して銃身内をワイヤーブラシで磨いて駄目にした。
と言う物が有ったので広まった様です。
確か、北米では50年代から古物商(蚤の市)で格安で売られたと言う話ですが。弾を生産しているメーカーが一社だけなので。一発2ドル以上するためコレクター以外は見向きもせず錆びて不動の物が多い。現在は実働する物は少ないとの話です。
WWTで大量にロシアに輸出したため、意外とロシアに残っているかもしれません。(WWU後アジアに大量にばら撒いたと噂です)
と言う物が有ったので広まった様です。
なるほど。それならば納得です。そうとうな阿呆2年兵だったのでしょう。銃身内のクロムメッキは恐ろしく頑強でしたので、相当な恨みを持って力いっぱい剥がしたのでしょう。
それを行えば銃は全損ですので、1年兵も2年兵も唯ではすまなかったはずです。
出典は不明ですが実際在った話なのか、一部に広まっている話なので。
連隊内で銃の保護の為の作り話かもしれません。(兵に銃を自分以外に触らせない)
38式は過小に評価するのも過大に評価するのも間違っている。
私たちが使っていた環境では必要にして十分の能力を十全に発揮していたので、そういう意味では「傑作」兵器であったといえるかもしれませんが、無論「万能」でも「最強」でもありませんでした。
もう少しこうであればという声は私も含めて無数にありましたが、どうあれ、どのような兵器でも「もう少しこうあれ」という愚痴は兵にはつき物ですので「完璧」など望むべくもありませんでした。それは私達の無いものねだりであって、そうした妄想の類を卑しくも後世の資料として受け取られる物として残す状況こそが恥ずむべき姿勢でしょう。
様々な誤解が蔓延していた状況は忸怩たる思いがありましたが、声を上げなかった私達にも問題がありました。
ここ10年ほどで急速に状況が改善されましたが、過度に持ち上げるのもどうかと思います。
なかなかに難しいものです。
それはそうと管理人さん、使用国・組織で帝政ロシアが抜けてませんか?
第一次大戦でロシア軍も輸入した三八式を使ってたはずです
それと7.7oマウザー弾使用に改造した物ならメキシコにも輸出されたと聞いています
このコメントにはにわかに頷けない物があります。
かなり年季が入った38しか触っていないので正確な批評とは言いかねますが、「第2次大戦中」という言葉がある以上は、「否」と答えるしかありません。
すでに申し上げたように状態の悪い銃が多くなっていましたし、固体精度に激しくムラがあり、どれほど整備してもまともにまっすぐ弾が飛んでくれないような厄介なものもありました。
特技兵でもない限りは戦場における狙撃は軽機が担っており(私は下手糞でしたが)、島嶼防衛等の特殊状況でもない限り歩兵銃を狙撃の一面で評価する意味の無さを理解してもらいたいものです。
何度も言いますが完動すれば優れた歩兵銃でした。整備性も良好で、頑丈で、威力も十分な銃です。
とはいえ訓練以外で38を使ったことは無いんですが。
下手を打つと、99式歩兵銃の印象のほうが余程薄いかもしれません。
銃剣でスイカを切ったところ、翌日には銃剣が錆びてしまった事や、弾丸を分解して装薬を取り出し、安酒に混ぜて酩酊して営巣入りになったこと等、ここ何十年も忘れていたことが思い出されました。
興味深い記事をありがとうございました。
特にコメント欄の99式様に於かれましては、当時の事をご存知の方が少なくなっていく状況において、これからも当時の事柄を発言し残して頂きたいと思います。
興味深いコメントをありがとうございました。
それと菊の御紋は入ってる三八式歩兵銃は戦場で直に入手したのだろうね、戦後に廃棄された小銃は菊のご紋を削り落として武装解除したそうだからレア中のレアだね。
知名度に比較して、存在してるモノが希少だから超コレクターズアイテムだね。
ですが戦前に生産されたタイプは綺麗で良品が多いです。
その辺りで38式を粗悪品だと勘違いしてる人も多そうですね。
ローマ市寄贈の碑みたいに
?三八式の生産は昭和17年までのはず。九九式の話と混同されているのでは?
大きく、中国戦線は三八式で、南方戦線は新型の九九式を配備していた。
それにボルトアクションライフルはそうそう故障するものじゃない。三八式は部品が共食いできない(部品の互換性が無い)というが、それは機関部などの大きな部品の話であって、フィアリングピンなどの頻繁に破損する部品は別。だから問題はない。
向いてるとか向いてないじゃないでしょ。
当時はどこの国も歩兵の主力火器はボルトアクションライフルなんだから。選択の余地なんてない。それなら何なら向いているというの?
M14の木製ストックが湿気の多いベトナムのジャングルで腐ったなんて話があるから、ジャングルでは木製ストックは向いていないかもね。
昔からの定番だからこそ、小説で使われるのですよ。
金に余裕の無い1年兵は装薬で、2年兵はバクダン飲みが定番でした(バクダン飲みも大概にして貧乏たらしい飲み方ですが)。
>それと菊の御紋は入ってる三八式歩兵銃は戦場で直に入手したのだろうね
38はかなりの旧品が員数外で放置されていたので(帳簿上は廃棄済み)、それらが「おみやげ狩り」の犠牲になっているようです。無論それだけではないでしょうが、御紋章の後方に「三八式」の文字がある旧品の出自はそのあたりかと思います。
>どう見ても満州かシベリアの平原向きな銃で、こんなもん持って南方にジャングルに行かされた兵士は悲惨だったろうな。
歩兵銃は構造が単純なので、機関銃等と違い、湿気や温度変化で不良が起きることはありませんでした。99式のボルトを折っている私が言っても説得力が無いのですが。
>大きく、中国戦線は三八式で、南方戦線は新型の九九式を配備していた。
前線では大陸であっても99式を始めとした最新兵器が配備されていました。私の独立中隊も最新兵器で装備されていました。後期生産分の38は広大な占領地に配備されていたようです(そのような区別があったかどうか確証は無い)。要地兵や臨時憲兵等が新品(に見える)の38をもって街路警備をしている姿を良く見かけました。
銃剣のついた38をもって街路警備をする姿は非常に「絵になる」光景でした。38は「ふかし」をきかすにもいい銃だったのですよ。もともとそういう部分も計算されていたんだと思っています。
>三八式は部品が共食いできない(部品の互換性が無い)というが、それは機関部などの大きな部品の話であって、フィアリングピンなどの頻繁に破損する部品は別。だから問題はない。
よく勘違いされますが、「消耗品」の交換と「要部」の交換は区別していただきたい(といっても5〜8個しかないのですが)。消耗品が「新品」と容易に交換できて当たり前です。もっとも消耗品すら整備を怠らなければほとんど破損しませんでした。要部の破損が発生した場合、練成部隊では員数外品を流用して何とか修理を試みます(打刻印で管理されているため)。戦場では比較的38や99の数に余裕があったため、下士官に道理の通じる者がいる場合は、廃棄処理されました。書類上はいろいろと手を回したようですが、そういった話は記録に一切残りませんので。そのあたりの要領を得るのも下士官の重要な仕事でした。
そういった大量に弾薬を消耗する兵器は日本軍は最初から眼中にないよ。近距離でしか使えないしね。
それにジャングル戦なら開戦前に海南島で研究していたし、決して行き当たりばったりなんかではないよ。
知ってると思いますが
朝霞で富士のチケットの抽選会があります。
http://www.mod.go.jp/gsdf/eae/prcenter/event.html
アメリカ軍みたいに軽機関銃の大量配備なんて物量万歳作戦ができればそんな用意もいらないんだろうが。
これは後方で廃棄扱いであった38の再生生産品だったのではないかと思います。帳簿上は存在しない銃でしたので「新規生産扱い」だったのです。
私が疑っているのは「昭和17年まで生産された」という話の部分で、後期生産品の大部分、或いは全部がそうした「再生品」を「新規生産」扱いにしていたのではと思うところです。
打刻印が明らかに削り取られて、再度打刻されている物や、はなはだしい物になると二重に打刻されているものもありました。
美しく磨き上げられていても使い古されたものは、判別できるのですが、明らかに年季の入った本体に新品の銃床の組み合わせは多数見かけています。
生産年代によって若干の差異があるらしいのですが、実際に数種の年代の部品が入り混じった「新品」銃を末期の華南方面で目撃しています。
こうした「卑怯な手法」は予算上の処置だったと聞きますが(予算執行は再生より新品に篤いそうで)、旧軍特有の話かと思いましたら、孫によると、米軍等では逆に再生の方が予算が出やすいので、シリアル付のフレームのみ再生した実質新品の銃器があるそうですね。
戦車等の再生は新規生産ほどの予算をかけているとの話ですが豪快な話です。雇用の維持等、生臭い問題が絡んでいるようですが。
軍隊とはやはり究極のお役所仕事な訳でしょうか。どこも変らないですね。
開戦当時はまだアサルトライフルなんて無いし、サブマシンガンでは威力も低いし射程も短いし。
私にはあなたが無い物ねだりをして不当に日本を貶めているようにしか聞こえないよ。
カルカノ弾=イタリアのM1891用の弾薬。6.5mm×52 リムレス。
三八式実包=6.5mm×50SR セミリムド。
口径は同じですが別の弾薬です。
多分に私達の無知もあるのですが、短機関銃は銃弾の擦過音に乏しく、銃撃音以外は静かなもので、機関部の発する音のほうが大きいほどでしたので、恐怖を感じなかったのです。
単純に敵が狙うのが下手であったのも大きいですね。
不時遭遇戦では基本的に突っ込んだほうが勝ちというのが原則ですが、棒立ちになる敵が殆どでした。銃剣の間合いでは引き金を引ける剛の者は、友軍も含めて殆ど居らず、よほどのことがない限り、負けることはありませんでした。
戦場で兵を恐れさせる最大の敵は「音」なのです。短機関銃の音が歩兵銃や軽機程もあったら混乱して私も含めて逃げ出してしまったでしょう。
戦場浪漫を壊して申し訳ないですが、発砲炎や、火災、被弾煙は、眼前のものでない限り何も恐ろしくありませんでした。そうしたものは、とりもなおさず「自分に向かってこなかった結果」ですから、恐怖を覚える対象になりえないのです。
ところが「音」は「自分に向かってくる経過」であったり、視界にない範囲で音のみ近づいてくるような状況は、途轍もない恐慌を巻き起こしました。
「静かな」短機関銃を恐れないというのは、その威力等に理解が薄いせいもありましたが、結局、その認識が改まることはありませんでした。
華南方面でありがちなスコールや華中〜華南方面の泥濘地では軽機の保持は困難で、重機の輸送は不可能に近く、我々の最大の関心事は如何に軽機を完動状態で保持するか?でした。
幸い努力の甲斐あって、軽機の故障に悩むことはありませんでしたが、敵がいかなる兵器も故障させていたのは理解に苦しむ光景でした。短機関銃も例外でなく、一時期集中的に姿を見せて、急速に見かけなくなるパターンが繰り返されました。その期間を見極めて攻勢を強いると、面白いほどに敵を打ち破ることが出来ました。
いろいろな意味で贅沢な敵だったのです。
これに該当する兵器って、アメリカがベトナム戦争で採用した、M16アサルトライフルとか、M4カービンだよね。
それを当時の日本軍に求めるのは酷いよ。
申し訳ない。これは戦中に一部で広がった呼び名なんです。当初より38弾=カルカノと言っていた訳ではありません。
戦場でカルカノ銃を大量に鹵獲したことがあったのですが、以後、周辺部隊では38弾=カルカノ弾と呼びました。
何でかと言えば、
だってそっちのほうがカッコイイではないですか。
です。
そういう幼稚なことが戦場ではままあります。今でこそ私にとっては笑い話ですが、そうした戦域固有の話は、表ざたになっていないことがたくさんあると思いますよ。
拳銃弾を用いる短機関銃の有効射程なんてせいぜい数十m。一方小銃なら有効射程は700m、スコープをつければ2kmほど。
軽機関銃は分隊に一丁配備するような物で、歩兵全員が持つ物じゃない。
数々の貴重な意見、もったないです…いっそYoutubeに日本語でもコメント投稿してはいかがでしょう?
現役時代の使用者からのコメントは今の使用者にとってもかなり参考になって喜ばれるでしょうし
それか誰かに翻訳したうえで転載を出来れば最高かもしれませんね
私も英語が出来ないので思いつきです、、、すみません
99式軽機は操典に示された行軍姿勢があったのですが、末期には適当でした。
私は肩に担いで銃床を右手で、2脚の基部を左手で握って運びました。メロウ持ちというのですか?息子や孫は、模造銃でこの姿勢を見せたときに大喜びしてもらえました。
これは遠方よりよく判別できて、狙撃されることもありましたが、全然命中しなかったので気になりませんでした。とにかく大陸の敵は射撃が下手だったのです。
その代わり手榴弾の投擲は非常に巧みでした。
中国軍にカルカノが配備されていたのですか。イタリアから輸入したのかな?
中国軍がせっかく購入したり供与された新型兵器を保守点検せず性能を維持できなかったというお話はおもしろいです。今でも通じる中国人のいい加減な民族性を表していますね。
大陸とやりながら米国と会戦した
が無謀すぎたんよ。
片方だけなら、なんとかなったと思う。
相手が中国だけだったらというならともかく、アメリカだけでもおそらく勝てない。
中国に100万人張り付いているのは陸軍であって、アメリカと戦うのに必要なのは海軍と航空機だから。
>朝霞で富士のチケットの抽選会があります。
知りませんでした。告知に追加しました。ありがとうございます。
話を割って、恐縮です。
>拳銃弾を用いる短機関銃の有効射程なんてせいぜい数十m。一方小銃なら有効射程は700m、スコープをつければ2kmほど。
>軽機関銃は分隊に一丁配備するような物で、歩兵全員が持つ物じゃない。
勘違いしてほしくないのですが、日本陸軍では歩兵小隊では、火力の要は軽機であって歩兵銃ではないのです。極端な言い方をすると、歩兵は榴弾兵であり、軽機の護衛でした。最後の要は兵による突撃でしたが、その際の火力は軽機による移動擾乱射撃でした。
歩兵小隊は軽機の火力が主力だったのです。
末期の大陸方面編成は2個歩兵分隊、1個重擲分隊で歩兵1個小隊ですが、軽機を4〜6丁を持つのが普通で(分隊に2丁。小隊に6丁の保有の場合、2丁は独立班に分けて、小隊直下火力として運用した)、員数外の鹵獲機関銃を多数抱えるのが通例だったようです(我が中隊は定員不足で99式軽機の運用のみでしのいでいた)。
歩兵銃は鹵獲しても、余裕があれば後送しましたが、基本は若干の調査(数や種類、整備状態などの情報は周辺地域の敵の様子を推測するのに重要な情報でした)の後に、破壊して、薪にして焚き火にくべてしまいました。
そもそも中国から日本軍を全部引き揚げることができるなら、アメリカと戦争をする必要がない。
・・・そうだったのですか。持ち運びのできる軽機関銃という兵器が登場してから、そのように戦術が変わったのですね。
どうも日露戦争で理解が止まっていたようです。
私が詳しく調査したわけではないのですが、装具漁りで見た限りでは、どちらかというと維持、整備のための道具がなかったのではないでしょうか?
前線に整備班がついてくる運用は日本特有の運用だったみたいですが、大陸の敵は後備兵や予備兵力のみならず、輜重部隊すら適当だったので、兵器の戦場整備に対する認識が低かったのでしょうか?
バーやMG34等も多数見かけましたが、鉄くずでした。
威力のある銃弾を発射して取り回しもいいバーや射撃速度が壮絶に早いMG34は完動すれば脅威でしたが、バーは弾切れすれば投げ捨てられて、MG34は印象的に1500から2500発も発砲すればリンクが大量に残っていても、投棄されていました。
軽機の持続射撃は銃身の適時交換が必須であることを知らなかったのでしょうか?
銃身交換時は機関銃破壊の決定的な好機なので、教育でも叩き込まれたことですが……、敵が銃身交換を行うところを咄嗟狙撃する機会は全然なかったですね。そういえば。
どういう教育をしていたのでしょう?大陸の敵は蚕棚で収穫できると言っていた古参がいましたが、そうだとすればとんでもない話です。
私達に与えられた教育が完璧であったとは言いませんが、生き残るための技術は最低限以上に教えてもらえました。敵兵がかわいそうです。
インターネット上を見回しても、本屋でざっと見回してもその辺りを詳述している記述は少ないですね。そのあたりの記述に、小説家の歴史小説が引用されているのを見ると鼻白んでしまいます。
詳述されている資料は高価であったり、殆ど手に入らなかったりするのですが、卑しくも専門性の高い記述を得るのであれば、その程度の苦労はしていただきたいものです。
6.5から7.7への変遷を歩兵銃のみで概観すると意味不明になると思いますよ。操典の変更で明確に歩兵銃から軽機に比重が移った面を理解しないと、陸軍の建制に決定的な誤謬を得てしまいます。歩兵銃のみの威力で判断すれば、38が現役でなんら問題はなかったはずです。99式のペア運用は、軽機重視を思えば的を得た変更でした。
そうした誤謬が正されていない部分が大きいのは悲しいことです。
個人の意見ですが、陸軍の火力は非常な努力を得ていたと思います。それがおかげで私は帰ってこれたのだと思います。
私も英語の能力が絶無なので、YOUTUBEへの書き込みはハードルが高いですね。こうしたサイトがなければ、そうした動画の存在すら気がつかなかったことでしょう。
私には見ていて大変に楽しく心躍るニコニコ動画さんのほうが性にあっています。
いまさらこの歳で英語を勉強するのはしんどいことですが、少しく興味がわいてはいます。
正直、九段の桜で花弁と散るが早いか、英語を手にするが早いかというところでしょうが。
>拳銃弾を用いる短機関銃の有効射程なんてせいぜい数十m。一方小銃なら有効射程は700m、スコープをつければ2kmほど。
>軽機関銃は分隊に一丁配備するような物で、歩兵全員が持つ物じゃない。
歩兵銃は軽機に対する防御的運用に終始していました。とかく、軽機がなければいかようにもならなかったのです。
正直重機は余り好きではなかったですね。大事なときにいないんです。重擲のほうが100倍は頼りになりました(よって重擲はつねに争奪戦だった)。
重機は渡河戦闘や、泥濘地での戦域管制射撃、要地争奪戦での援護(たいていの物は重機で粉砕できた)等で、普段はどこにいるかも知れない野郎でした。
軽機の最低射程以下の敵の突っ込みに対して短機関銃は羨ましかったですね。残念ながら鹵獲品はどれも状態が悪く、まともに完動した物は殆ど見たことがなく、完動品は下士官(死んでもらっては困る)や司令部が持っていきました。
戦場での狙撃は軽機か重機の仕事でした(私は苦手というか下手だったのですが)。重機には専用の筒標尺や眼鏡が用意されていて、2〜3キロ程度なら楽勝に狙撃していました。
眼鏡付小銃をもった特技兵は従軍中に戦地で見かけたことは唯の一度もありませんでした。きっと特務任務だったのでしょう。私達のようなわっぱと合間見える可能性はなかったようです。
軽機の配備は半分隊(2〜3個独立班)で1丁、完編分隊で2丁、1小隊3個分隊編成なら6丁が基本で、小隊直下火力として何らかの手立てを駆使して、1〜2丁の員数外を確保するのが普通です。
96式には結構な余裕があったので、ボトル一本で後方から引っ張ってくる手段はよく行われました。弾の補給にも(個人的手管を用意する必要がありますが)不安はなかったようですが、我が中隊では2種類を持つのは不安でしたので99式軽機のみでしのぎました。
たまさかに、ZBやイスパノを持ちましたが、やはり多種の武器を持つのは不安が付きまといました。
実戦から得た経験の数々、拝見しましたがこのまま歴史に埋もれさせるのは惜しいです、日本の損失です
差し出がましいとは思いますが、ニコ動で動画投稿されてはいかがでしょう
光人社NF文庫に匹敵する価値ある動画になると思いますよ
また、愚者は経験を、賢者は歴史を尊ぶは至言でありましょう。
私の言えるのは私の得た体験でしかありませんが、それが何がしかの価値を得られるのであれば無謬に過ごした私の年月に対する幸いです。
爺の独り言にお付き合いいただいてありがとうございます。
半袖半ズボンの軍服とかならあるよ。
短機関銃(日本陸軍では機関短銃と呼称)は射程が短いし貫通力も劣る、接近戦用の武器。使える状況が限定される。
ただあればそれなりに便利ではあろう。日本でも一〇〇式機関短銃を開発している。
アサルトライフル(シュツルムゲベーア)はドイツが大戦中期から後期にかけて開発したもので、開戦時の日本に責任はないよ。そのドイツでも数の上の主力はKar98ボルトアクションライフルだった。
それだって、発射速度などはボルトアクションライフルとの決定的な差があるとは日本軍では認識されていなかった。
何を論点しているのか戸惑うばかりですが、旧制陸軍に於いては越南と北支、満州に装備実験隊を持ち、越南には大規模な衛生実験隊が展開していました。
海軍は旧来より、遠洋渡航訓練を繰り返しており、北極圏から南洋赤道直下まで、行動要領を準備していましたと聞きます。
陸軍飛行隊では、南方潤滑や北方発動要綱も準備されており、歩兵操典には砂漠地帯に於ける戦闘行進指針すらありました。酷熱地に於ける戦闘指針は越北作戦時には非常に重宝しました。日本帝国陸軍は疑いようもなく外征軍だったのです。
無論完全ではありませんでしたが、北アフリカやソ連での戦闘、北洋での死闘、南洋での米軍の苦闘、時代は下がって、ベトナムでのM16のトラブル、航空機の電子機器の信頼性の低下問題、中東での戦車の発動機故障、現代の中東方面の機材問題と、想定外の問題発生は軍事史上、枚挙に暇がありません。
要は特殊事情に関していかようにすばやく対処しうるかが問題であって、結果はどうあれ、当初の想定外の南方地域で戦車運用や、航空機の稼動を維持した事、機関銃の投入に関して、部品補給の欠乏以外における致命的な欠陥が問題となった例は私自身も聞いたことはありませんし、資料を概観してもそういった問題は報告されておりません。純軍事的な面での瑕疵は見受けられません。
補給の途絶や陸軍徴用船の損失等、作戦面で瑕疵は目を覆うばかりでしたが、それでもぎりぎり限界線での供給努力は失われておらず、常に戦闘力の維持と、兵の保護は努力されていたように思えます。
常に努力を上回る被害を得て、損失を受け、あたら兵を失った例がありますが、私個人は軍が冷酷に兵を切り捨てたという評価には同意しかねます。
一部、どうしようもなく弁護できない例外があることには同意しますが、例外のない法則はありません。
特に旧制陸海軍は、日露戦以降、極限気候での戦闘力維持に関して疑いようもなく優等生でしたから、環太平洋地域全域における戦闘準備面では不安はありませんでした。
逆説的に言えば、それがために戦闘地域を選ぶことなく果てしなく戦域を広げたのだと思います。
戦闘準備に不安がある軍が、そういった地域に兵力を展開して戦闘能力を維持できると思いますか?
私はそうは思えません。事実、どの地域においても戦闘能力を維持して戦闘を行った現実がそれを証明していると思いますが。
あなたの文章には私が見受けるに、3重の論理矛盾があります。どうか、結果から状況をさかのぼって状況を読む能力を磨いてください。
そうした思考方法ではためになす議論しか出来ないでしょう。非常に不安を覚えます。
そもそも半自動小銃だって一発撃てば反動で銃が動くから、効力射を加えるためには狙い直さないといけない
だから平地で戦う分には実質的な投射量はあまり変わらない
問題は市街地や密林など見通しの利かない場所での近距離戦闘だった
苦し紛れな言い方になるが
補給線が細いから
故障させないように後生大事に使った日本
物量+人量
補給線が太くて
故障しても使い捨てにできる諸外国
の違いしか無かったんだ...
半分スレチ失礼して、と
つくもがみ信仰って科学の現代でも立派に生きていると思うんだ
形は変わったけどね
それこそ、「擬人化」というジャンルなのかもしれない
特に日本は何でも擬人化する
銃、戦車、爆撃機でさえ可愛く作りかえる
人に使われる「道具」ではなく、人と共にある「モノ」を思い描いているのかもしれないし
単に流行っているからやっているだけかもしれないし
(もしかしたら可愛く書いて、敵に「こんな可愛い奴を戦場で傷付けるのはもったいない!」っていう思想操作によって戦争を無くそうとしているのかもしれない)
まぁどちらにせよ日本はモノを大切にする(最近は...)、ってことだけを言いたかった
当時、対ソ連戦を戦っていたフィンランドでも三八式は使われていたような気がしたのですが、、、
正式な記録は無いのでしょうか?
フィンランドでは正式採用はされなかったよ
正式銃採用にあたって三八式歩兵銃とモシン・ナガンM1891小銃で揉めたけど、結局は銃本体と弾薬の調達が容易なM1891小銃になった
といっても、三八式も輸入して一部で使ってたらしいけど
>故障しても使い捨てにできる諸外国
それは国力の差が全てと言う様なものでは?しかもその補給を上手く勝利に導いたのは実質アメリカのみだろうに、諸外国と言って日本を貶すのは言いすぎだと思う。
輜重輸卒が兵隊ならば〜の歌もかなりの誤解を生み出した話ですね
たしか操典には火力や補給の重要性もきちんと書いてると聞きましたし
そもそも全軍機械化出来たのはアメリカだけだし
日本の国力はイタリアよりましぐらいで米ソ英独とは比較になんないんだから
にしても装備品の保守管理が出来ないなんて中国兵ってそこまで質が悪かったのか……
ドイツの軍事顧問団がいたはずなのに
一部の軍閥しか教育を受けられなかったのかな?
規定の整備を怠らなければ故障しませんでした。
どういった種類の工業製品にもいえることですが当たり前のことかと思います。
>輜重輸卒が兵隊ならば〜の歌もかなりの誤解を生み出した話ですね
たしか操典には火力や補給の重要性もきちんと書いてると聞きましたし
火力無くば歩兵戦力足らん……でしたでしょうか?帰国時にすべてを失いましたので、とはいえ営門帰還時にある程度の慰問品という形で、物資の補給を得られたのですから、山積みで放置されていた書籍をいくつか失敬しておけば良かったですかね。少しく後悔があります。今保管しておけば貴重な資料だったでしょうに。当時はこれ一つもそういった考えが浮かばなかったのですが。
輜重輸卒を大事に出来ない者は戦場で生き残れませんでした。冗談ではなくそうでした。みな、等しく気を使ったものです。
>にしても装備品の保守管理が出来ないなんて
きわめて優秀な装備、錬度をもった部隊がいたらしいことは確かですが、彼らが戦場に出てきたことはありませんでした。私たちが戦場に於いて対峙していたのは常に2線級だったのです。
彼らは必死に戦うのですが、尻に帆をかけるとあっという間に戦場から散り去っていました。そうすると、戦場が遺棄兵器の畑となるのが通例でした。
前線一線級部隊であった我が中隊は、遺棄兵器の調査以上は行ういとまが無く、後続部隊が回収、破棄していましたが、今思うと、ソ連製兵器を見かけたことがありませんでした。そのあたり、どうだったのでしょう?
左右関係なく我が軍に対抗するとの国是があったはずですが、よく思い出してみると、我が軍の前にいたのはすべからず右派だったような気がします。
彼らの戦意は大した物でしたが、いかんせん錬度に疎く、軍事常識に脆く、一戦で崩れる様は悲惨極まりなかったものです。
彼らは明らかに教育が足りませんでした。手榴弾の投擲技術以外に見るものはありませんでした。
ただ後背地域を混乱させる術は大したものでした。それが原因で急迫戦闘を妨害されてひどく迷惑したのです。
ゲレート98と我々が呼んでいた小銃は、完動すれば恐ろしくも精度の高い銃であり、戦場狙撃用(特技兵ではない)に扱っているものがいました。
銃口が重く、取り回しが悪かったのですが、落ち着いて狙撃するのには都合のいい銃だったようです。
しかし整備に当たっては、道具の規格が微妙に違っているようで、分解するのも一苦労でした。私程度の技術ではお手上げでした。
MG34については良い印象がありません。非常に造作精度が高い軽機でしたが、戦場で扱うには造作が精巧にすぎました。たまたま状態の良いものがあれば(たいていに於いて大量の弾薬とセットで遺棄されていた)、使い捨てで使用しましたが、移動射撃は不可能で(保持が難しく、非常に危険でした)2脚射撃では射撃精度が悪く、射撃速度が早すぎて、遠距離射撃では敵を排除できませんでした。
私個人の意見として聞いてほしいのですがMG34の思想は、射撃精度をわざと悪くして火勢で制圧し、遠距離での集弾性の悪さを射撃速度の早さで補ったものだと思います。
我が軽機に関しては射撃精度の高さで敵を確実に排除する思想で、点射はまさにそういったことを実現するための技でしたが、だからと言って制圧射撃に手を抜いていたわけではなく、必要とあらば速射や咄嗟射撃は躊躇うものではなかったです。
なにしろ、軽機の一基数は20000発と膨大でしたから、発射速度が早いMGの2000〜3000発程度の銃側基数程度の射撃に撃ち負ける心配は絶無でした。
800〜1000発程度で息切れするMGはだらしが無い軽機でした。
米軍はブローニング重機がよほど気に入っていると見えていまだに現役装備です(確かにすばらしい性能です、日本の航空機はほとんどこの機銃で落とされました)
38式が海外に輸出されたのは小口径で扱いやすいのとなにより安かったからです。現在の中国製韓国製家電のようなものです。性能で売れた訳ではありません。第一線装備にはなりませんでしたしライセンス生産もされてません。
そろそろ冷静な評価をしてもいいころでしょう。
信頼が大きいのではありません。何度も説明したとおり、軽機による火力がなかずんば、歩兵ではありませんでした。
歩兵銃を持った兵は擲弾兵であり、軽機の護衛であり、重擲の護衛であり、軽機の輜重でありました。
64式小銃に2脚をつけたのは、軽機こそ歩兵火力の要との旧軍的思想を引きずったものとすると、つまり自衛隊は、旧軍があれほど望んでやまなかった火力指向を実現したかったのではないでしょうか。
全兵軽機兵。羨ましいですね。
ブ式。威力も優れ、設計も優れていることは認めますが、歩兵銃に関して論じている場に持ち込む物ではありません。そも、歩兵が運用する火力ではありません。
現実問題として、野戦戦闘であのような巨大な物が出てきても、重擲の的です。92程度の重機ですら野戦運用は困難でしたから、ブ式が拠点戦闘でしか見かけられなかったのも当然でしょう。
重機はどれほど隠匿に勤めても、発砲すれば直ちに存在が露呈するので、それを向けられた部隊は大損害を免れない恐ろしい兵器でしたが、一当たりを凌げば、対応は簡単でした。
威力偵察などで重機による伏撃を食らうとなすすべもなく全滅してしまうので、そういった使用に勤められた場合、深刻な脅威になったと思いますが、幸いにしてそうした状態に合うことはありませんでした。
随分と本論から外れましたが、要は、適材適所という当たり前過ぎる話です。
ブ式が疑いようもなく傑作兵器であったことに異論はありませんが、ブ式は歩兵用の兵器ではありませんし、歩兵に向ける兵器でもありません。
歩兵としてはブ式より38を選びますし、小隊に配備される機関銃としては99を望みます。64式が選べるのであれば、大喜びで64式を選びます。
現代戦に適合し得ない重装備歩兵中隊ですが、ここまで出来ればあの頃の私であれば鼻を高くして眠れそうです。
この場合、1個中隊あたり120〜150名、擲弾筒40基、軽機4基、M10SMG16丁(本部班に別途16丁)、軽迫4基、カール・グスタフ2基、狙撃銃6丁となります。
すごい重装備ですね。いかなる状況にも対応できるでしょう。
馬鹿なことを書きました。
重火器班も増やしたいですね。
くだらない話ですが、こういう妄想は存外楽しいことに気がつきました。
大陸における後備戦闘でも38が能力不足であることは認められませんでしたが、一線級の部隊に99が配備されている状況下であえて38を選ぶ理由等ありはしませんでした。
>三八式歩兵銃は第2次大戦中の、最も精密精巧なロングレンジライフルです。
この意見はただの妄想です。99の方が全般に戦場に適合していました。
38が悪いわけではなく、99が38より優れていたのです。38の後継が38より劣っていたら正式採用された理由がわからなくなります。
38は採用された当時や、太平洋戦争での後備運用では必要十分な能力を持っていましたが、前線で運用するには、補給面でも、整備面でも不安がありました(この際、威力面で語る必要はない)。
わが中隊は急速に補給が悪化した昭和20年においても99式のペア運用に尽力していました。
前線においては38は今更必要となることはありませんでした。
陸自の土浦の武器学校には旧軍小火器は大抵の物がしっかり保存されている。その中でも九ニ式重機関銃は戦後の映画で射撃しているし今でも整備すれば稼動する程度の状態で保存されている模様。
(一概には言えないけれど)全ての利便性は「軽さ」に繋がると思うのです
M16は裸なら2.5kgかそこらです
そこにアンダーバレルグレネードをつけると3、5kg、 30発マガジンも入れると4kg弱
99式さんが擲弾筒を班に一基にしか付けないのはそういう意図があってのことでしょうか?
追伸
ブローニングM2は枯れつくした技術の集合体なので、それを上回る性能の.50口径機銃が見つからない
とまで言われるほど傑作らしいです
代わりの機銃(近い将来に導入される)も銃身や機関部の交換でグレネードマシンガンにもなるから、って理由だったりします
カルカノ弾が軽かったので、一基数分の弾薬装具と総合的には99式とその一基数分の弾薬重量と殆ど同じでしたが、99式にくらべて大きいことはいかんともしがたいことでした。
一部、銃身の長い99式がありましたが、別段射撃精度がいいわけでもなく、取り回しが悪く、通常私たちが持つ99式歩兵銃のほうが良かったですね。どうも私は言葉が足らないところがありますが、私が言う戦闘力は、装具や付帯装備等も含めた完全装備の個人を指して「戦闘力」と無意識に考えるので、それがうまく伝わっていないようです。
そういう意味で、ブ式のみならず、92式重機も含めて、歩兵向きの銃器とはいえないと、言っている訳です。
小隊編成に重機や迫撃砲は運用上の悪夢でしょう。
戦場では本来の基数など無視してなるべく多くの銃弾を持とうとしましたので、クリップすら邪魔でした。歩兵が持つ消耗品で最もかさばったのは水でしたが、最悪、他のすべてをなげうっても水筒は保持しなければいけませんでしたから、目を皿にして、いらない物を探しました。
残念ながらそもそも歩兵用の個人装具とは正式な装備状態で既に限界まで簡易化されていましたので、結局のところ、時期が下がるに従って歩兵の装具重量は増えるに一方でした。
現代の擲弾筒付歩兵銃の重さがどれほどかはわたしは知らないのですが重擲の重量と、その弾薬の重さを考えると、小銃班すべてが擲弾筒を持つのは常識的ではないという判断をしました。
重擲の弾薬は中隊全員で手分けをして持っていましたが、99弾も手分けをして持っていましたし、個々人の手榴弾を持つ必要性を考えると個人に振り分ける重擲弾は、2個程度が限度でした。
常識的には小銃班に重擲弾を持たす判断は下策だったと思いますが、我が中隊長は戦闘力の保持に常に不安を抱えているようでしたので、とにかく、中隊で多数の弾薬を持つことに努力していました。
重擲班も個々の装具がありましたし、彼ら自身、小銃を持っていましたので、彼らの装具を手分けして持っても、重擲班全体で相当無理をして30個持てればいいほうでした。
これは理想的な値で、戦場全体で重擲は引く手あまたでしたから、小隊が保有する重擲弾は50個あれば御の字といったところです。
短機関銃を羨ましいと思ったのはその点でして、重擲班が自衛用に短機関銃を持つことが出来れば、それだけで中隊の機動火力が増大したでしょう(重擲班につける護衛を減らすことが出来る)。
戦場で兵の最大の仕事は歩くことでしたから、重い装具はそれだけで兵の敵だったのです。
大きくて取り回しが悪い38よりも99を私が強く押すのはそういう戦場の現実があったからです。
ブ式重機がすばらしい重機であることはわかりますが、あんなもの小隊〜中隊編成上の歩兵が持つ武器ではありません。「あなたがお持ちください」という物です。
生きるに必要な雑具(飯ごうやテント、外套、水筒、糧食等)で、15キロはありました。大陸特有の気象条件に対抗するために、毛布や、手ぬぐい等も必要で、スコップも軍正式の物のほかに土方剣先スコップや、ツルハシ等も小銃班に一つか最悪、分隊に一つは欲しかったです。
また何にでも使える土嚢袋や麻紐、荒縄、丈夫で軽く、様々に使い勝手がいい国旗(どこの物でもよい)等も持っておきたかったです。
かくて、雑品のみで20キロ近くになります。
小銃、小銃の整備具、戦闘一基数に員数外分も含めた弾薬は200〜300発を持ち、手榴弾4個、重擲弾2個、みなで手分けをして持つ、雑具、雑品、保要品、その他と、最終的には30キロから40キロにもなりました。
私は軽機銃手でしたので、装具はかなり助手に持たせることが出来ましたが、軽機の整備道具のみ(正規品ではない)5キロはあり、グリスやオイル、布、鋏、予備部品に弾薬1000発(員数外。本来は軽機分隊の弾薬班が持つ)と重量的にはさほど変らず、そこに軽機本体が加わりますので、常に米俵を担いでいるような物でした。
そうした状況で携行食料は2〜3日分もてるかどうかという状態になりますから、輜重輸卒がまともでなければ一週間と持たずに行動力を失います。
旧制陸軍が補給を軽視していた等というのは嘘っぱちであるというのはそうした、軍事的な常識を無視した者の妄言で、確かに損害を得て補給が苦しくなったにせよ「自給せよ」ではどうにもならない部分があるわけでして、南方で力及ばず玉砕にいたった兵に対して最低限以上の補給が継続してなされていなければ、3日以上の戦闘は不可能だったはずです(間断無い連続した戦闘が行われたと仮定すると、平時の小隊編成による弾薬は3時間と持たずに射耗する。この事実はきわめて重要です)。
話がとっちらかってしまいましたが、そうした部分を無視して武器や装具の良し悪しを戦闘力に当てはめても、事実は見えません。
装備品では常に強力であった大陸の敵が我らを撃ち破れなかったのは、結局のところ本質的な戦闘力の整備という面に理解が及ばなかったせいでしょう。
当時の陸軍においても歩兵一人に後備で一人が支え、銃後で10人が支え、装備品は100人の血税により支えられているといわれていましたから、大陸30万の前線兵を支えたのは本土の5000万の国民でした。
そうした理解がないと、あの頃を理解するのは難しいと思います。
そうした部分に踏み込まないのであれば、ここでは記事の38式歩兵銃のみに焦点を当てましょう。積極的に話を曲げている私が言うことではないでしょうが(苦笑)。
http://www.warbirds.jp/sudo/index.htm
作戦要務令第三部と輜重兵操典が補給関連なのか
どう見ても補給軽視ではなさそうな感じです
日本の国力的な問題で各種装備の必要数が配備出来なかったのと、対ソ連戦を想定していたのが急に南方に行かなければならなかったのが原因ですね
あと戦後のひたすら旧軍は駄目だった的な空気
敗戦によるマイナスのハロー効果ですね
附則や要則、補助要綱、補助資料等が足りませんが、非常に貴重な情報ですね。ありがとうございます。
もしお見えなら、38式歩兵銃のダストカバー(遊底を覆う鉄板、遊底覆のこと)
について当時の感想はどうでしたか?
連合国の評価では、「ムダなオモリ、カチャカチャうるさいだけ。」と言う物でした。
何か苦労した、こんな事が有ったとか思い出はないでしょうか?
遊底覆が「ムダなオモリ、カチャカチャうるさいだけ。」というのはどういうこと指しているのか意味がわかりません。
別になんとも思いませんでしたし、これが邪魔であるという思いは練成中にはなかったです。大陸でそういう話を聞いたこともありません。ただ実戦部隊の38についてはわかりません。38を使う部隊と99を使う部隊は作戦域が重ならないように厳密に区分されていましたので、戦場における38の記憶は、後備部隊の物しかありませんでした。
ただ、練成に使用された38には状態が悪い固体がままあって、整備に手を抜くと、装弾した銃弾が跳ね戻ることがありました。
これは弾装の板バネを交換した際にボルトと遊底覆の位置関係、排莢孔の位置関係を注意深く調整する必要があり、場合によっては蝋盛、鑢がけを伴いました。
そうした状況でも遊底覆で跳ね返されるため、顔面に直撃するような事態は免れました。
また弾丸の不時発火事故が起きても遊底覆で防がれ、安全でした。
遊底覆が「ムダなオモリ、カチャカチャうるさいだけ。」というのは状態が余程に悪い固体であったか、固体正規の部品と違う組み合わせであったか、整備が悪かったのではないでしょうか。
私が知る限り、遊底覆が邪魔というのは聞いたことはありません。
メモメモφ(・ω・)
生活品だけで20kgともなると持つものは軽いほうがいいのですね
そして迫撃砲は使い勝手が良い分、弾の重量と消費がネックになると...
その点、擲弾筒って便利なのかな...
手榴弾と迫撃砲の中間みたいな感じで
(ただし飛距離は50〜100m、物によってはもっと)
アメリカが「ニー・モーター(膝撃ち迫撃砲)」と呼んでいた旧軍の擲弾筒(実際に膝で打ったアメリカ兵が複雑骨折した、実際は足裏で抑える)は実践ではどういう扱いに入っていたのでしょうか?
もしかしてあまり出回っていない物だったりしたのでしょうか?
追伸
今でもアメリカは60ミリ迫撃砲を改造して、砲身の長さを変えないまでもレバー激発式、一点固定(地面に鉄棒と鉄板を押し付ける)の「コマンド・モーター」なるものを使っています
>ブ式(ブローニング)は重いから中隊以上のクラスでないと保持運用ができないと...
メモメモφ(・ω・)
92重機でいいますと、重機部隊のみで小隊程度の兵力となってしまいます(建制上は独立中隊)。しかしこの小隊は独立した戦闘力を持っていないので、これを小隊というのは難しいですね。
重機小隊を生かすには、通常編成の歩兵小隊が2個は最低限必要で、実際には中隊が支援しなければいけません。
重機は歩兵を支援するのが建前ですが、重機の護衛として歩兵中隊1個が拘束されますので、結局、歩兵中隊1個が他の歩兵を支援する形となってしまいます。
こうなると支援するべき相手が小隊程度ではひどく効率が悪くなり、また、中隊程度の運用で戦闘続行可能な状況に、別途1個中隊を支援させる事態は戦闘正面をとることが難しい事態に陥ります。
重機の運用が難しい、重機が必要なときにいないというのはこういうことで、重機レベルの兵器になるとこうして果てしなく兵力が増大し、急激に輜重の負担が大きくなり、部隊の行動を阻害してしまうのです。
しかし92式重機の支援を実際に得られると(それはとりもなおさず大火力が必要な敵に衝突したということになるので一個人の兵としては喜べない状況ですが)、戦場の状況は一変します。
分進合撃が繰り返された大陸の戦場では状況がそれを許したことはありませんでしたが、建制上の兵力では歩兵1個小隊に一基の重機が支援できるだけの戦力がありました。
実際に小隊レベルで戦力が分散することが多い戦場で小隊に重機を貼り付けることは補給上も整備上も不可能であり、重機は独立中隊として大隊直下火力として拘置されました。これは本来の運用方法ではないのですがしょうがないことでした。
我が中隊の所属する大隊は、事変中に大きな損害を得て、編成が酷く歪でしたが、大隊隷下の重火器中隊と重機中隊が戦闘力を発揮し得る戦場が少なかったがゆえに、戦力が充実しており、それらが集中運用されると、重機12丁、弾薬基数、一丁あたり10000発、山砲4門、基数150発であり、その火力と経戦能力は圧倒的でした。
実際には運用実績が少ないがゆえに砲側弾薬はそれ以上に備蓄があり、員数外の苦力を後続させて弾薬輸送させていましたから、重機中隊が介入する戦場は重機の独壇場でした。
歩兵銃も軽機も眺めているだけで勝敗が決してしまいます。
しかしそれは特殊状況であって、重機の運用で多くの困難があることには変りありませんし、歩兵1個人としての立場で言いますと重機のような重要目標が側にいると、敵のなけなしの重砲を呼び寄せてしまいますので、迷惑でした。
同程度の敵であれば正面から蹂躙すればよかったですし、敵に重機や迫撃砲等の重火器があれば肉弾戦法で損害を抑えつつ、粉砕するか、迂回してしまえば問題ありませんでした。
大隊兵力が分散している中で反撃を受けても、大隊本部中隊には重火器が溢れていましたので、予備戦力として非常に頼りになりましたので安心でした。
予備戦力の配備に乏しい敵は前線兵力はともかく、全般戦力は酷いものでしたから、ともかく運動戦で引きずり回せば敵の消耗を強いることが出来ました。
そうした状況では、個人装具が増大し、重機班の支援を受けても邪魔なのです。
そうして考えるとMG34の思想は我が火力指向によく適合していましたが、なにしろ通常運用で消耗が激しく、維持が難しいので、鹵獲火器としては長期に運用できる物ではありませんでした。
使い捨てでは中隊どころか小隊レベルでも運用可能でしたが、長期運用を考えれば、結局、MG中隊が必要になったでしょうから、どうあれ、重機の運用というのはいろいろと苦労が多かったのです。
敵の情勢や、占領地域の広大さから、大隊兵力での集中運用は困難で、兵力は分散しがちでした。
中隊で分散運用されていたといいましたが、歩兵操典上、それは異常なことであり、本来は、歩兵は大隊運用にて戦力とすべきモノでした。
大陸の情勢は、個人の管制できる域外で混乱していたのです(それを理解できたのは戦後随分たってからですが)。師団司令部の苦悩はいかほどだったのでしょう?そういう想像をすることがあります。
華北や華中の一部地域は地勢が良かったので、連隊、師団レベルで支援を得て、トラックや94式等で重機中隊を運用できましたので状況が全然違いました。
華南域の歩兵が99式のペア運用で強く優遇されていたのは、そうした戦場の現実があったものと思います。
>遊底覆が「ムダなオモリ、カチャカチャうるさいだけ。」というのはどういうこと指しているのか意味がわかりません。
戦時中、米軍の鹵獲品による38式のテスト(評価)記録では”遊底覆が行動時(歩行?)、異音を出し隠密行動を妨げる”と言う物でした。(遊底覆の遊びが大きかった?)
お話から創造するに、鹵獲した38式が整備不要又は復元した時の部品の磨り合わせが悪いものだったのかもしれません。
整備マニュアルに無い口頭による整備ノウハウ(コツ)が多かったのが一部の”38式最強伝説”と”38式悪銃伝説”を作っているのかもしれません。
実際に触った人に聞かないと記録や公式データでは解らないコトが有ります。
大変に参考になります。
いや良いんだ、こういう物をスポーツで使える様になるって事は、世界が平和な証拠だもんな
先日、戦友に会う機会がありましたので重擲について詳しい話を得ることが出来ましたので、答えておきます。
重擲弾筒班は4人で、2班一小隊。これは実際に重擲を取り扱う人数で、指揮をする少尉以下10〜12名が支援する形であったそうです。
これは戦時編成ですから、実際の建制がどうであったかは覚えが無いそうです。
また支援する者も重擲小隊専属ではなく適時状況により歩兵小隊から抽出されていたため、固定ではありませんでした。
重擲は射手、砲側助手、支援助手(弾薬班)であって、これで四名です。
弾薬は通常4個いり弾嚢2個により携帯し、一人当たり8個、一班32個が本来の携行弾数となりますが、重擲は戦地に於いて引く手あまたでしたので、基数を維持できたことは殆ど無かったそうです。
勘違いしていたのですが、私が重擲による戦闘であると記憶していた状況のかなりの場面で小銃擲弾が使われており、そこそこの戦火を得ていたと指摘されました。
私は軽機班でしたので、戦地に於いて小銃擲弾を扱ったことは無く、練成中の記憶に「そういえばあったな……」程度でした。
射撃法としまして、一般的な第一法は、左膝を立て、右ひざを折り、かかとを尻にあわせて下半身を固定し、駐板前端を(側方から見て)左足中央(土踏まず)に揃え、砲を45度に固定します。
左手はまっすぐのばし、左ひざの内側に固定して、引き金を握ります。
右腕は砲芯を軽く握り、左右に振って目標に対して微調整を行います。照準は基本的に身体全体で行います。
頭は垂直に保ち、顔は目標に対して正対します。利目で目標に対して照準します。
射角を正確に保つため、左足は微動だにしないようしっかりと地面に固定します。
重擲は身体の正面に据え、身体の中心線に一致させます。
射筒を回転させることでガス圧を調整し(ガス逃し穴がある)射撃姿勢は射程に限らず一定です。
装弾は、射手が行うことが出来ますが、緊張状態にある戦場では危険な行為で、助手と二人で行うことが無難です。
射撃中は、更に二人程度が周囲で護衛します。
射距離は最低30〜500メートルで、300メートル程度で視界が通る位置なら百発百中であったとのことです。
伏臥射撃です。
伏臥状態では軽く両足を開き(つま先で指先から肘までの距離をとる)、重擲と身体の角度を10度程度取ります。
左腕をしっかりと伸ばし、筒の中央を軽く握ります。
駐板は鼻筋の真下あたりに固定し、第一法の場合より強めに固定します。
右腕の肘を地面につき、右腕上腕をおおむね垂直に保ち、身体を固定します。
右手人差し指、中指で引き革をしっかりと握ります。
それ以外は第一法と変りません。
第二法では、身体に無理な姿勢であることから射撃姿勢が落ち着かず、命中率は50パーセントまで落ちてしまいます。
伏せ撃ちを強行せざるを得ない位置まで重擲を前線に出すのは愚行であり、基本的には第一法で速射するのが基本です。
行軍態勢で不時接敵した場合でも、重擲は後方に下がって射撃することが望ましいです。
駐鋤ですから、小さな面積でより多くの地面を咥えられるように軽くそった形状となっており、それが欧米人の太ももの形状に合っていたのでしょう。
重擲の反動は小銃の200倍あると教育されましたので、太ももの上で射撃しようものなら、後送間違い無しでしょう。
現在の擲弾筒は低圧射弾だそうですので、映像を見ても、両手に持って軽がると取り扱っていますが、重擲はかなりの高圧でしたので、両手に持って射撃すると筒が100メートルは後方に飛ぶそうです。
不時戦闘で、渡河中にそうせざるを得ない事態があったのですが(私自身は覚えていないのですが)、それで重擲を失ったことがあったそうです。
すぐさま員数外の重擲が「どこからともなく」補給されたそうですが、ソレがために中隊付曹長に(文字通り)死ぬまで文句を言われ続けたそうです。
迫撃砲に関しては通常編成では小型の99式小型迫撃砲が中隊に配備されていましたが、損害が累積した中期以降、維持することが出来なくなり、大隊本部に後送して、我が中隊に於いては配備なしでした。
迫撃砲があれば助かる戦闘もありましたが、分解すれば2人で運べるほど小型軽量とはいえ、弾薬輸送や装填、照準、その他で20人以上必要で、護衛に更に10人以上取られてしまう現実の前では、定員割れの我が中隊での運用は不可能でした。
ただし大隊本部ではどこからとも無く、旧式の70ミリ曲射砲や37ミリ速射砲をひっぱてきて、砲塔のない92式重装甲車(?記憶が定かではない)に引っ張らせていましたので、先にも書きましたが、やたらと重火器が豊富な大隊本部でした。桂林攻略でこれらの重火器が火を吹いた際には、他の大隊が難渋していた戦線を一突きで突破し、軽微な損害で市街に突入出来ました。
もともと我が大隊は非常に火器装備に於いて優遇されていましたから、当然の結果であったでしょう。
桂林戦では本来我が大隊の到着を待つはずが、到着部隊が逐次戦闘に突入しましたので、混乱しましたが、結果的に敵のほうが更に大きく混乱しましたので、結果論ですが、楽な戦闘でした。
戦術論として振り返った場合、とてもほめられるような戦闘ではなかったです。
わが大隊は、前線で常に先頭に立つ事が求められているゆえにいろいろと特殊な状況にありましたが、装備で優遇されていることはすなわち激戦区に投入されるということで、うらやむどころか憐憫の目で見られるような有様でした。
以降、南寧突破戦では北方側背迂回で師団規模の敵を徒歩蹂躙して大混乱になったりしましたが、最終的にはランソン東方まで急迫。戦果は赫々足るものがありました。
しかし、損害も大変なものがあり、大隊の半数が負傷するという事態に陥りました。
皆様の何がしかのお役に立てれば幸いです。
私もいつその戦列に加わるかと思いますと、随分遠いところにきた物だと思います。
しかしキャッツカフェでパフェを口にし、気の合う仲間とたべリ、カラオケで歌謡曲を歌える平和の中で、急激にきな臭い匂いが漂ってきた現状は戸惑うばかりです。
どうか軽挙妄動なく、尊い平和が保たれることを望みます。
クリップを使わず、バラで弾を携行することが多かったと書かれていますが、それだと後の弾薬盒下面にある穴から弾がこぼれたりしないですか?クリップを外した上で15発入りの紙箱に入れ直されたのかも知れませんが・・・・・・。
それと、「私物のハイパワー」というのはいわゆる9ミリ口径の「ブローニング・ハイパワー」のことでしょうか?そうであればその入手経緯など非常に気になります。鹵獲品でしょうか?
MG34のような精巧な機銃が支那まで渡ってきて使用されていたと言うことを初めて知りました。国民党が使用したのはZBやBARのようなシンプルなものばかりだと思っていたのです。
ところで、九九式軽機を扱っておられたとのことですが、戦闘中連続射撃による過熱で銃身交換をする事はあったのでしょうか?九九式は銃身を取り外すのにレンチでボルトを外さないといけなかったと記憶しているので、困難だったのでは?と思っています。支那軍相手にそんな連射は必要なかったのかも知れませんが・・・・・・。
長文失礼しました。
ハイパワーはおっしゃるとおり、ブ式ハイパワーのことです。
当時、拳銃を私費で買うことはそれほど難しいことではありませんでした。
と、いっても時節柄、輸入は途絶えてしまっていますから、新品を購入しようとすると本来、国産品しか選べない状態でした。
私が所有していたハイパワーは、仲のよかった下士官が戦死した際に、彼の遺言で引き取った物です。
本来我が陸軍の法制上、拳銃は士官以上に支給される物であり、私のような兵が持つことはありえない話なのですが上記した情勢から荷物が多い私は歩兵銃を持つことが難しく、よって、指揮官より黙認してもらっている状態でした。
ちなみに「支給される」拳銃ですが、お金に余裕がある士官であれば、陸軍を通じて他国の拳銃を購入することは自由であり、そうした中では、ハイパワー及びM1911あたりが人気であり、官給品以外の拳銃の8割はその2種類で占められていました。
そういった類の拳銃の保全は持ち主の個人的義務に帰するものであり、また、その性格上、軍による管理が難しいところから、戦後、日本国内にひそかに持ち込まれたこうした拳銃が30年近くに渡り一般市民に大きな脅威を与えることになったのは慙愧に耐えないことでした。
予断ですが、ハイパワーは日本人でも持ちやすく、頑丈で、整備も簡単であり、非常に人気が有りました。
M1911はアメリカでも人気がある拳銃でしたから非常に高価でしたが、これまた頑丈で、おおらかな設計でしたので、整備もハイパワーとは別の意味で簡単でした。
片手で撃つには重く、命中精度も悪く、陸軍が引くリ反っても制式化されることはありえないものでしたが、大きな威力のわりに、反動がマイルドで、連続射撃をしても集弾性は悪くなかったのです。
命中性と集弾性を混同してはいけないとは教育でよく言われましたが、コレほどまでにソレを実感できる兵器はなかなかありませんでした。
勿論そうです。
そのままでは落ちてしまいますので、油紙を何十にも巻いて保持しました。
制式ではないのでよくないことでしたが生き残るためにはかまってられなかったのです。
後方よりやってくる紙箱や、木箱はいろいろ使い道がありそうでしたが、我が陸軍では補給に使うそういった後備装備品の破損は厳に戒められていましたので、輜重段列より補給品を受け取った場合、情勢が許せば直ちに開封して、分配すると、包装品は直ちに後送しました。
映画等でそういった箱を分解して焚き火にくべているような描写を見ることがありますが、そんなことをすれば「君が、泣くまで、殴るのを、やめない!」とばかりに士官や兵長に「オラオラオラ」されます。
ありえないことでした。
クリップもそうやって後送していましたが、正式な支給品であり、消耗品でしたから、それらが後送されることは本来はありえないはずですので、途中より、後送せずに、手榴弾に巻いて一緒に投げたりしました。
ものすごい威力を発揮します。
通常の手榴弾であれば、5メートルほど離れて地に伏せれば、殆ど影響がありませんが、クリップを5〜10本巻いた手榴弾は15メートル離れても危険ですので、遮蔽物がないと投げた本人が危険なほどの代物でした。
孫が「JOJO」というアニメを見ているので、ちょっと使ってみましたが、説明しやすくていいですね。
ありとあらゆる兵器を見ました。
ソレこそスペイン戦争で使われたと思しき中古品や日露戦争時代の骨董品と思しきマキシマムなども見かけました。玉石混合だったのです。
個々の性能を見れば、我が軍に相対して非常に危険で、かつ、高性能な兵器が数多くありましたが、正直、馬鹿馬鹿しい話でした。
多少は威力に難があっても取り扱う兵の立場としてみれば、粒がそろっていたほうが何百倍も威力を得ることが出来るのですから、敵軍は、根本的なところで戦争を理解していなかったのではないでしょうか。
そういった中で拳銃は例外でしたが、逆に言えば、軍隊の中での必要性の面で拳銃の地位がそれだけ低かった証左でもあります。
士官を士官たらしめる「見得」でした。
まあ……後は、士官の「義務」を果たすべき際の必然的な道具という面もありますが。
私が相対した敵がたまたまそうであったのだけでしかないのかもしれませんが、不思議とソ連製の兵器は見かけませんでした。
であるからこそ、ソ連がわが国との条約を強力に守っている証拠であると思っていたのですが……結果は皆さんの知るところです。
本来は交換の用はありません。
我が陸軍の常道ではそのような連続射撃は重機の仕事であって、軽機は点射が主であり、弾幕を張るのは突撃援護ぐらいでした。
ところが大陸の地勢はソレを許さず、本来小隊レベルで援護すべき重機が追随できず、重機が行うべき仕事を軽機が担う場面が殆どでした。
これこそが、我々が弾薬の保持に苦労した理由であります。
とにかくありとあらゆる努力を持って弾を持ち運びました。
99式は、天候等にもよりますが3000〜5000発程度は適時の休憩を採ることによって連続した射撃が可能な優秀な兵器でしたが(MG34などは1500発程度で怪しくなり、2000発も撃てば暴発して手がつけられなくなる)、さすがに10000発も撃てば大変な事になります。
よって、戦場で分解して銃身を交換することを余儀なくされました。
その際、その構造が面倒であったのは確かで、後方に下げる際、99式を受け取った銃側助手が死傷することが多く、悩みの種でした。
私の受け持ちであった99式の場合、20人程度の兵が犠牲になった筈です。
が、軽機が自分たちの命を守る要であることを十分に理解している兵たちは、危険な銃側助手に対して先を争って志願しました。
苦労をかけたと思います。
99式の本来の構造上、粉塵舞う戦場で分解することは大変に危険なことですが、皆、非常に能力に優れる兵ばかりでしたから、どれほどの危急な戦場であっても5分ほどで交換を完了し、しかも完全な状態であって、戦場分解が原因の99式の不動は唯の一度も経験することはありませんでした。
その勤勉な努力と能力には頭が下がるものでした。
参考になれば幸いです。
ただ、ヨーロッパからの輸入品よりアメリカからの輸入品のほうが好まれていましたから、多分ブ式で間違いないかと思います。
ドイツ製の拳銃を持っている人もいましたが、完全な「見得」であって、戦場では「もう一丁」持っているのが通例でした。
丁寧なご回答ありがとうございます。
ハイパワーはFN社に入社したジョン・ブローニング氏により設計されたものらしいですから呼び方はどっちでも良いみたいです。
ありがとうございます。いろいろと記憶違いや忘れていたことがあって、悩ましいところですが、ハイパワーがそういう出自であったとは知りませんでした。
自分がこの文章をかいている機械がなんであるかを考えれば恥ずかしい思い違いです。
ありがとうございました。
当時、大陸戦線で99式ペア運用を行えたのは2コ軍3コ連隊ほどで、大体数にして6〜8コ程度。
通常の大体装備では38が主力で、軽機は96式と十一年式が半々だったそうです。しかも重機の援護は無く、十一年式を三脚に載せての代用重機でごまかしていた有様で、自分たちのいた部隊とは状況が大きく異なっていたそうです。
いかに自分たちが恵まれていたかを痛感しました。
重機から野砲まで装備で溢れかえっていた我が大隊は相当に優遇されていたようです。
とはいえ、桂林攻略等で合同し、悪戦苦闘の上で捕虜となった某大隊の兵に聴いても、やはり大陸の戦闘で自分たちが撃ち負けた経験は無く、多くの犠牲を払いつつも(その兵のいた大隊の生還率は340分の1)、負けている実感に乏しく、終戦と戦闘停止の命令を受けてもなお、戦勝により占領地に駐屯するつもりで戦地にとどまっていたとのことですから、大陸の事情はどこも変らなかったようです。
私自身も負けた意識に乏しく、非常に混乱しましたし、どこの部隊でも停戦命令以後の被害のほうがはるかに大きかったということで意見の一致を見ました。
あの15年戦争においては我が軍は常勝無敗でしたといっても大げさではないでしょう。
例えば我が大隊では桂林攻略後、昭和20年の戦闘(桂林攻略後年明けまで同地で休養した)で30名あまりが戦死していたと記憶しますが、大隊戦力から言えば微々たるもので、それも通常であれば後方で治療を得て生還可能な負傷者が戦地であるがゆえに介錯を得た例が多く、純粋な意味での戦死者とは言いがたい例が多かったのです。
ところがその後の本土帰還までの半年間の抑留生活で当時の生存兵のうち実に70パーセントが病死しています。
更に抑留地から上海までの移動で10パーセントが病死、行方不明となっていますから、我が大隊はおかしな事に、武装解除後に壊滅したといっていいでしょう。
死亡率はジャグといわれる1〜3年兵に集中しており、抑留地での死者の実に9割前後が若年兵に集中しました。
理由は様々にありそうですが、若さゆえに栄養欠乏に弱かったこと、また経験が少ないゆえの要領の悪さなどがたたったものと推測されます。
ところが何度も言いましたとおり軍の主火力は軽機であって歩兵銃ではないため、皆さん知ってのとおり、96式、十一年式ともに機構上の問題から再使用に耐えない薬莢が続出して、あまり意味が無かったそうです。
またそういった命令があったにもかかわらず、結局補給が功を奏して、弾薬不足にいたったことは無かったようです。
むしろどの帰還兵も一律に言うのが水の不足で、煮沸消毒を行わなくては飲用に要さない大陸の水事情はどの部隊も苦しめたようです。
水の不足はつまり燃料の不足と同義で、荒廃した大陸では薪の供給に難渋して、弾薬も食料もあるのに進軍できず、ソレを理解できない上部との衝突が絶えなかったとの述懐を残した士官もいるそうです。
戦場日記に記された当時の状況では、桂林攻略戦時、
市街戦においてZBを33丁鹵獲。戦闘に使用。戦闘後、大隊により回収。
後刻に12丁を員数外として確保(恐らく休養期間中に市街地を探索して収容したものと思われる)。中隊本部班に配備。
銃弾150000余りを収容。
柄付手榴弾多数を確保。中隊に於いて後段使用せり。ありがたし。
とありますので、大陸の敵は装備面で随分と恵まれていたようです。
桂林戦あたりの後段における戦闘ではMGは払拭していたものと推定され、以後、終戦まで、MGの文字は確認されません。
迂闊なことに、自部隊の全般戦力に対する記述を怠っていたものとみられ、自軍の戦力が不明なのですが、鹵獲員数外戦力としては、武装解除の直前で、
スプリングフィールド小銃6丁。選抜銃手配備。
ZB軽機9丁。独立火力中隊。
バズーカ(小)。3門。独立火力中隊。
バズーカ(大)。6門。大隊直下拘置火力小隊。
ゲレート小銃100丁(10丁の間違いか?)。予備。大隊苦力配備。
ステン短機。100丁あまり。使用に耐えず。予備拘置。
MP短機(MP28?)22丁。中隊本部班。
マシンガン(トミーガン?)多数。適時に配備されし。
リボルバー拳銃。多数。兵に分配。現地食料確保に於いて役立てり。
との記述があります。
バズーカの記憶は曖昧で、また(大)(小)の記述も意味不明ですがそのまま書いておきます。
なにしろ発射速度がはやいため、特に92式重機をもたないカルカノ弾装備部隊は苦しかったものと推察されます。
特に十一年式軽機では5発点射が基本ですから厳しい戦闘でしたでしょう。
恐らくですが、これらの経験がわが99式ペア戦力の投入に繋がったものと思われます。
しかし上記した通り、MGは射撃を持続するためには格別の配慮の要る銃ですから、兵の質が低いと戦力維持に苦労します。
大陸の戦闘における歩兵火力の主力は敵も味方も軽機であり、終戦間際に激化した米軍による空襲被害と、戦病死を無視した場合、歩兵の被害の7割は軽機によるものであったと推測されます。
それだけ軽機が重要であって、翻って歩兵銃が軍における主力火器ではない事実が理解できるものと思います。
後から考えるとK98kらしき銃もあったような気がしますが、それらのほとんどは中国国内で生産されていたもののようであったと聞きました。
なるほど、整備で規格が微妙に合わないのも当たり前でしょう。
38のごとく、部品の互換性が微妙に無くて、我が軍で再利用しようにも、すぐに消耗してしまったのです。
戦後、何十年もあの頃と向き合うことを放棄してきたのですが、ボケ防止にと与えられたパソコンでいろいろと思い出す事も出来て、確かに、ボケ防止に役に立っているようです。
今もお元気だろうか
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