2011年11月07日

海外の反応 日本の歴史 日本海海戦(The Battle of Tsushima)


日本海海戦

日本海海戦(にほんかいかいせん、1905年5月27日 - 28日)は、日露戦争中に行われた海戦である。 日本以外では一般に対馬沖海戦(つしまおきかいせん)と呼ばれるが、実際の海戦域は対馬沖にとどまるものではなく日本海広域に及ぶ。

日本海軍の連合艦隊と、ロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊(日本では「バルチック艦隊」の呼び名が定着している)との間で戦われた。日本連合艦隊司令長官東郷平八郎が採用した丁字戦法などにより、バルチック艦隊は戦力の大半を失い壊滅したが、連合艦隊の損失は軽微で、海戦史上まれな一方的勝利となり、ポーツマス講和会議への道を開いた。当時、世界最大の軍事力を有していたロシア帝国の敗北は世界を驚愕させ、タイムズ紙など有力紙が確認のため発表を遅滞させるほどであった。


1905年(明治38年)5月27日(海戦1日目)午前2時45分、九州西方海域203地点付近にて、艦長成川揆大佐指揮の連合艦隊特務艦隊仮装巡洋艦「信濃丸」が汽船(バルチック艦隊の病院船「オリョール」であった)の灯火を夜の海上に視認した。接近したところ、4時45分突如無灯火航行中の艦影・煤煙を多数視認し、此を無線電信で通報せんとした。「敵艦見ユ」である。


5時05分、連合艦隊全艦艇に出撃が下令された。連合艦隊は大本営に向け「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と打電した。これは、海が荒れて計画していた連繋水雷作戦が行えないので、砲戦主体による戦闘を行うの意とも言われる。また司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』では、天気晴朗=視界良好で砲撃がやり易く、また敵を取り逃がす心配が少ない、浪高シ=艦が大きく揺れてお互い狙いを付け難いが、練度の高い日本軍の方が有利である、即ち総合すると「気象条件は我が方に極めて有利である」という意味であると解説している。


11時42分、第3艦隊第7戦隊も沖ノ島沖でバルチック艦隊を確認し、その後、友軍と合流した。13時15分からは、第3戦隊旗艦「笠置」をはじめ、バルチック艦隊に同航して敵所在を通報していた第3艦隊各艦が列をなして第1・第2艦隊に合流しはじめた。


13時39分、連合艦隊主力の第1・第2艦隊もバルチック艦隊を左舷南方に視認し、戦闘旗を掲揚して戦闘開始を命令した。13時55分、東郷は連合艦隊旗艦「三笠」へのZ旗の掲揚を指示した。この時連合艦隊が使用していた信号簿ではZ旗は「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」という文言が割り当てられていた。


14時02分、針路を南西にとる連合艦隊と針路を北東にとるバルチック艦隊は反航路(平行すれ違い)上につく。14時03分、両艦隊の距離は11,000mまで接近する。距離8,500mで「どちら側でなさるのですか」と「三笠」砲術長の安保清種が砲戦の射撃準備を右舷とするのか、左舷とするのかを東郷にたずねた。距離8,000m、東郷は右手を高く挙げ、左へ半円を描くように示し、先頭をいく旗艦「三笠」は大きく左舷取舵を開始した。敵前大回頭、いわゆる「丁字戦法」「トーゴー・ターン」の開始であった。




バルチック艦隊は戦力の大半を一回の海戦で失った。損害は被撃沈16隻(戦艦6隻、他10隻)、自沈5隻、被拿捕6隻。他に6隻が中立国へ逃亡し、ウラジオストクへ到達したのは3隻(巡洋艦「アルマース」、駆逐艦「ブラーヴイ」、駆逐艦「グローズヌイ」)のみであった。兵員の損害は戦死4,830名、捕虜6,106名であり、捕虜にはロジェストヴェンスキーとネボガトフの両提督が含まれていた。連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみ、戦死117名、戦傷583名と軽微であり、大艦隊同士の艦隊決戦としては史上稀に見る一方的勝利となった。

当時後進国と見られていた日本の勝利は世界を驚かせた。また海戦の結果、極東海域における日本海軍の制海権が確定した。ロシア軍にとっては、満州で対峙する日本軍の補給を断つことで戦争に勝利できる可能性が消滅した。1905年3月の奉天会戦でロシア陸軍主力の撃滅に失敗した日本にとって、海戦での決定的勝利は和平交渉の糸口となり、ポーツマス講和会議への道を開くことになる。





by Wikipedia

フィリピン
この日本とロシアの戦いの後で、彼らはお互いに勇気と栄誉を称え合いました。

この戦いの勝利は小さなアジアの一国が、西洋の大国を打ち負かすというものであり、同時にそれまで盲目的に白人に仕えてきたアジアの人々の目をさますものでした。
 
アメリカ合衆国
東郷提督への全ての賞賛は、日本帝国海軍への賞賛へとつながって行きました。
このロシア海軍との海戦の大勝利は全世界に衝撃を与え、アメリカはこれ以後、日本帝国海軍の動向を注視するようになっていきます。
 
イギリス
戦艦三笠はイギリスで建造されたのだ!
 
アメリカ合衆国
三笠はこの海戦で20発から30発の砲弾を食らっている。
 
ロシア
現在では、ロシア海軍と日本海軍の提督は定期的に会談の場を持っています。
 
フランス
この1905年の日本海海戦は、近現代史においても非常に重要な意義をもっている。
西洋以外の国が西洋の大国に勝つという歴史上初めてのことであり、この海戦の勝利は新しい時代の幕開けでもあった。
そして、この海戦の勝利は、第1次大戦、第2次大戦と、日本を戦争に導いていく引き金にもなってしまった。
フランス、パリより。

ところで、このビデオのフランス語字幕版はないのですか?
 
イギリス
日本はこの海戦の準備をするために、世界中から軍艦を買い集めた。
他国に売却が決まっていた軍艦まで強引に買っていってしまった。
イギリスは当時、同盟国なので、これには協力しました。
 
アメリカ合衆国
ロシアはこの日露戦争で、保有していた軍艦のほとんどを失い、事実上、ロシア海軍は消滅してしまった。
ロシア海軍が再建されてまともな海軍になったのは、実に数十年後の第2次大戦後のことである。
 
アメリカ合衆国
日本、大勝利だ!
 
アメリカ合衆国
私は別に驚かない。
日本は第2次大戦中にも偉大な海軍を持っていたのだから。
 
ロシア
私はロシア人なのだが・・。でもこのビデオ、クール・・・だ。
 
インド
この戦いでの勝利がなければ、アジアはまだ植民地のままだったかも知れない。
また、日本もその存在が危なかったかも知れない。
この戦いの勝利は、歴史を転換させる偉大な勝利だ。


posted by 虚空に踊らん at 12:17| 世界から見た日本の歴史