2011年09月14日

海外の反応 帝国陸軍 コレヒドール総攻撃(フィリピン)


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フィリピンの戦い (1941-1942年)

1941年から1942年のフィリピンの戦い(Battle of the Philippines, 比島作戦, 日本側作戦名「M作戦」, 1941年12月8日 - 1942年5月10日)は、太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦における日本軍のフィリピン進攻作戦である。

本間雅晴中将の指揮する第14軍主力は12月22日にルソン島に上陸し、1月2日には首都マニラを占領した。しかし、アメリカ極東陸軍のダグラス・マッカーサー司令官はバターン半島に立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗した。45日間でフィリピン主要部を占領するという日本軍の予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島の攻略までに150日もかかるという結果になった。



コレヒドール島の戦い
バターン半島の沖合いのコレヒドール島はスペイン統治時代からマニラ湾の入口を守る要塞として整備されていた。アメリカはワシントン海軍軍縮条約の制限が切れた1936年から補強工事を再開し、30センチカノン砲8門、30センチ榴弾砲12門、隣のフライレ島に配置された36センチ砲4門をはじめとする重砲群、巨大な地下室、発電所、電車まで備えた近代的要塞を構築していた。守備兵力はアメリカ第4海兵連隊を中心に、バターン半島から移動してきた部隊など12,000であった。

4月14日、バターン半島先端に進出した重砲兵第1連隊の24センチ榴弾砲が砲撃を開始した。互いに海越しに重砲を撃ち合う砲撃戦はしばらく続いたが、19日午後、24センチ徹甲榴弾の1発が要塞の弾薬庫に命中し大爆発を起こした。これで砲撃戦の決着はついた。

日本軍は5月5日の夜に上陸作戦を実施し、歩兵第61連隊の2個大隊と戦車第7連隊の一部がコレヒドール島の北東端に取り付いた。守る米比軍の砲火は激しく、一部は逆襲に出たものの、日本軍は橋頭堡を確保した。6日正午、マッカーサーの後任の司令官に就いていたウェインライト中将(3月22日に昇進)が降伏を申し入れた。本間中将は、降伏はフィリピン全土の米比軍が伴わなければならないと主張し、ウェインライト中将もこれを受諾した。翌日までにコレヒドール島の全軍が降伏した。




by Wikipedia

フィリピン
大日本帝国万歳!!大東亜共栄圏万歳!!比日関係万歳!!

(原文のまま)

このコレヒドール戦の映像は日本側の視点から描かれていて素晴らしいです。
普通、テレビで放送されているコレヒドール戦の映像は、ほぼ全てがアメリカ側の視点で作成されているので、私はあまり見ません。
フィリピンより親愛をこめて。
 
モンゴル
アップロードしてくれてありがとう。
このビデオで、書籍では学べなかった歴史を理解することが出来ました。
私は永遠にこの事を忘れません。
 
フィリピン
この日本のフィルムはコレヒドール攻撃のものですか?
今まで見たことがありませんでした。
アップしてくれてありがとう
 
ハンガリー
私は日本側から描かれている「バターンとコレヒドール島の戦い」の映像を見たことがありませんでした。

驚きました。

映像の最後に出てくる治療を受けている米兵の姿やリラックスしている水兵の様子は、皮肉としか言いようがありません。

これらの人たちが集められて、捕虜収容所に向かって、「悪名高き死の行進」が始まるということになっているのですが、これは都合のよいプロパガンダであったということです。


posted by 虚空に踊らん at 15:25| 太平洋の戦い