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サイパンの戦い(Battle of
Saipan)とは太平洋戦争(大東亜戦争)中、1944年6月15日から7月9日に行われたアメリカ軍と日本軍のマリアナ諸島サイパン島における戦い。ホランド・スミス中将指揮のアメリカ軍第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団が斎藤義次中将が指揮する日本軍第43師団を潰滅させ、サイパン島を占領した。 1944年6月15日〜7月9日 兵力 日本軍 指揮官 陸軍 斎藤義次中将 海軍 南雲忠一中将 31,629名 戦死 25,000名 自決 5,000名 捕虜 921名 アメリカ軍 66,779名 戦死 3,500名 戦傷 13,160名 1944年5月30日、ナウル基地を飛び立った海軍の偵察機彩雲が、マジュロ環礁に停泊するアメリカ軍の大艦隊を確認した。 6月5日、ふたたび彩雲がマジュロ環礁を偵察。アメリカ軍が出撃準備を急いでいることを確認した。大本営は、アメリカ軍はサイパンを襲わずパラオを襲うと予想し、パラオ方面の防衛力を増強した。9日にも彩雲がマジュロ環礁を偵察したが、すでにアメリカ軍は6日にサイパンに向け出撃しており、その姿はマジュロ環礁から消えていた。 6月11日、アメリカ軍艦載機1,100機によるサイパン島に対する奇襲的な空襲が行われ、13日からは戦艦8隻、巡洋艦11隻含む上陸船団を伴った艦隊がサイパン島に接近、砲弾合計18万発もの艦砲射撃が開始された。これにより日本の陣地は半壊し、サイパン基地の航空機150機のすべてを失った。 このサイパン島への侵攻は日本軍を驚かせた。なぜなら、日本軍側はアメリカ軍が5月27日にもっと南の西部ニューギニア、ビアク島に侵攻してきたことからパラオ諸島に攻撃が行われると予期していたからである。事実、第31軍司令官の小畑中将は、5月28日からパラオへ作戦指導のため出張しており、戦略的奇襲を受けた形になった。小畑軍司令官は急いでサイパンの軍司令部へ帰還しようとしたが、既にサイパン島周辺はアメリカ軍の手に落ちており、小畑軍司令官はグアム島から指揮を執ることになった。軍司令官不在の第31軍司令部は、井桁参謀長が責任者となって作戦指導を行ったが、少将である井桁参謀長が中将である斎藤第43師団長を指揮するという変則的な形となった。一方、救援の為に派遣された日本機動部隊は6月15日、「あ号作戦」を発動。米機動部隊を迎撃する為マリアナ諸島へ向かった。 15日7時、アメリカ軍は上陸を開始した。9時ごろまでに300以上のLVT(Landing Vehicle Tracked、上陸用装軌車)で海兵隊8000名がサイパン島の西の海岸に上陸。日本軍は伝統の水際撃滅作戦をとり反撃を開始した。ところがサイパン島の海岸は見晴らしが良い為水際撃滅は大して意味をもたず、更に空と海からの猛烈な砲爆撃に晒され守備隊は著しく消耗した。結果は米軍2000人あまりを負傷させたものの独混47旅団、戦車第9連隊第4中隊などが全滅した。日没までにはアメリカ軍は幅10km、奥行き1kmの橋頭堡を確保し19時までに海兵隊2万名以上の上陸が完了した。 上陸日当日の陸軍省・参謀本部では、いたるところで「31軍は腰抜け」「井桁のぼやすけが」と敵上陸を許した井桁参謀長に対する非難と罵声があふれていたという。また井桁参謀を解任し、長勇と交代させるべきだとの声も起こった。 上陸日の夜、日本は水際作戦のため主力を海岸に結集し一斉に反撃を開始した。しかし昼間の攻勢で部隊間の連絡は困難に陥り、戦力の掌握は不可能となっており、照明弾により夜襲の利点は無力化され、米軍の優勢な火力により2個大隊と横須賀第1陸戦隊はほぼ全滅し島の北部へ退却した。 翌16日、第27歩兵師団の部隊が上陸しアスリート飛行場に向け進撃した。しかし飛行場までの間に広がるサトウキビ畑中に日本兵が潜んでおり、そこから奇襲攻撃が加えられた。そのため上陸米軍は、火炎放射器で畑を焼き払い、日本兵が出てきた所を攻撃する作戦に出た。作戦は成功し、第27歩兵師団は夜半までに飛行場に到達した。16日の夜から17日にかけて、日本軍は戦車第9連隊(44輌)含む約8000名が総攻撃を開始したが、1時間に野戦砲800発、機銃1万発という米軍の圧倒的火力によりほぼ全滅した。18日、斎藤中将は飛行場を完全に放棄。そのため南部に残された日本軍は完全に孤立した。 上陸3日間の攻勢の失敗に加え、水際撃滅作戦の為に日本軍の陣地は海岸付近に集中しており、敵の艦砲射撃や空襲のよい的となった。このため守備隊は早々に壊滅し、水際作戦を指示した大本営の晴気誠陸軍参謀は責任を感じ、サイパンへの派遣を志願したが却下された。彼は1945年の8月17日に自決した。この戦訓は後の硫黄島の戦いや沖縄戦で生かされる事となる。 19日、「あ号作戦」で出撃した日本機動部隊はマリアナ沖海戦で大敗を喫した。2日間で艦載機400機を失い、帝国海軍航空部隊は無力化された。これによりマリアナ諸島の日本軍は救援の望みを絶たれた。組織的な反撃が不可能な程戦力が減少した為、斎藤中将は防御に適した島の中部の山岳地帯にあるタポチョ山に防御線を敷き洞窟を利用し抵抗した。 24日、大本営はマリアナ沖海戦の敗北の為サイパン島の放棄を決定した。この時点で斎藤の指揮する第43師団が4000名、残りは2000名程度まで減少していた。重装備は戦車が僅かに3両で野砲は全損。食料、水、医薬品が欠乏し、負傷者は自決する他なかった。それでも日本軍は断固として抵抗を続けた為、20日以来米軍の進撃は遅々として進まず、第27師団長ラルフ・スミス少将が更迭された。 25日、日本軍主力が防衛する島中央部において戦闘が開始された。この頃になるとアスリート飛行場が運用可能になり、偵察機や爆撃機の使用が開始された。空からの援護もありアメリカ軍は防衛線を突破、占領地は島の70%に達した。しかし、この日占領した住居地域では、倒壊した住居跡に残るトタンの下に日本軍が隠れており、掃討にかなりの時間を要した。 27日、日本軍第317大隊600名はアスリート飛行場奪回の為夜襲をかけたが、米軍に包囲され全滅した。 7月7日、日本軍は完全に追い詰められた。斎藤中将は残存部隊約3000名に総攻撃を命じ、陸海軍によるバンザイ突撃が行われた。米軍は日本兵の捕虜からこの攻撃の情報を得ており、陣地を築いて待ち構えていた。この戦闘で米軍に死傷者658名の損害を与えたが、日本軍はほぼ全滅した。翌日戦場は「死の谷」と呼ばれるほど、両軍の死体が累累と積み重なっていた。南雲中部太平洋方面艦隊司令長官を始め指揮官など残りは自決し、少数は降伏したため、事実上サイパン島の日本軍は全滅した。7月9日にターナー中将はサイパン島の占領を宣言した。 島民及び日本人入植者 マリアナ諸島防衛が真剣に検討されるようになると食糧事情も鑑み、昭和19年2月に兵員増強の輸送船の帰りの船を利用して、女性・老人・児童の日本への帰国が計画され(16歳〜60歳の男性は防衛強化要員として帰国禁止)各島からサイパンへと集結していたが、3月の帰国船亜米利加丸がアメリカの潜水艦に撃沈され500名の民間人ほぼ全員が死亡するなどの事件があったため疎開は進捗しなかった。これは民間船に軍事輸送を行わせていた日本側に対し、アメリカ側は既に潜水艦隊による包囲網が完成し、島から脱出しようとする船舶は軍事輸送とみなして無差別の攻撃が開始されていたためであった。戦闘開始段階での在留邦人は約20,000人と推計される。 多くの在留邦人が戦いの末期に米軍に捕われる事を良しとせず、また日本軍側も民間人に対する配慮が行き届かなかったため、岬に追い詰められた民間人がバンザイクリフやスーサイドクリフから海に飛び込み自決した。多いときでは1日に70人以上の民間人が自決したといわれる。アメリカ軍は島内の民間人を保護する旨の放送を繰り返していたが、当時の多数の日本人が信じていた「残虐非道の鬼畜米英」や帰国船撃沈事件の恐怖イメージのためにほとんど効果がなかった。また退避中の民間人に米軍が無差別攻撃したため、民間人の死傷者が続出していたことも影響した。軍司令部側が民間人に配慮を行い、自決行為を強く戒めた事が効果を出し、民間人の自決行為が少なかった『テニアンの戦い』とは対照的である。民間人の最期の様子はアメリカの従軍記者によって雑誌タイムに掲載され世界中に配信された。 戦闘終了後アメリカ軍は非戦闘員14949人を保護収容(日本人10,424人・朝鮮半島出身者1,300人・チャモロ族2,350人・カナカ族875人)した。逆算すると8,000人〜10,000人の在留邦人が死亡したとみられる。 大本営は「おおむねほとんどの民間人は軍と運命をともにした」と発表し、当時の日本の新聞各紙も敵国である上記タイムの記事を引用して民間人の壮絶な最期を記事にした。また藤田嗣治によるサイパンの民間人の最後を描写した絵画「サイパン島同胞臣節を全うす」が制作展覧された。半数以上の民間人がアメリカ軍によって保護されたことは一般国民には伝えられなかった 。 戦闘終了後アメリカ軍が生存者に行ったアンケート調査では、サイパンの日本兵が民間人にガダルカナルの戦い(日本の民間人がいなかった)で民間人がアメリカ軍に虐殺され女子は暴行された話を語っていたことが、サイパンの日本人民間人がアメリカへの投降を躊躇わせた原因として挙げられている。 by Wikipedia |
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アメリカ合衆国 サイパンでアメリカ軍による虐殺があったというデマがあるが、ほとんどの民間人は自殺したのであって、アメリカ軍が殺したのではない。 |
アメリカ合衆国 ほとんどの人はこんなウソを信じてはいない。 |
アメリカ合衆国 アメリカ軍は民間人の投降呼びかけを可能な限り実行した。この事は記録にも残っている。残念なことに、民間人の約半分1万人程度が死亡した。 |
アメリカ合衆国 東條はこのサイパンの喪失で失脚した。 |
アメリカ合衆国 日本は本土爆撃をさけるためにサイパンを守る必要があったはずだが、防備は手薄だった。 |
アメリカ合衆国 日本はサイパンへの攻撃をもう少し後と考えていた。だから民間人も避難させていなかった。 |
アメリカ合衆国 当時の状況では万単位の民間人の避難は無理だったと思う。 |
アメリカ合衆国 民間人を避難させ、完全な防御をしいていた硫黄島とはだいぶ違うようだ。 |
アメリカ合衆国 サイパンの海軍部隊の指揮官は、真珠湾を攻撃した南雲提督だ。彼はここで死んだ。 |
イギリス 「Battle of the Philippine Sea」(マリアナ沖海戦)で日本海軍の空母群は壊滅した。この時点でサイパンの防衛は有り得なかった。 |
イギリス 「The Marianas Turkey Shoot」(マリアナの七面鳥撃ち)と呼ばれているものだ。 |
アメリカ合衆国 日本では「マリアナの七面鳥撃ち」が定説になっているが、一部の日本嫌いの人間だけで、我々はあまりこの言葉を使っていない。 日本の方が自虐的だ。 |
アメリカ合衆国 バンザイクリフの映像は見るに耐えない。 |
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2011年09月01日
海外の反応 日本 絶対国防圏 サイパンの玉砕(Battle of Saipan)(英語版)
posted by 虚空に踊らん at 00:41| 太平洋の戦い