2011年08月31日

海外の反応 連合国 マーケット・ガーデン作戦の失敗(Operation Market Garden)(英語版)


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マーケット・ガーデン作戦(Operation Market Garden)は、第二次世界大戦中の1944年9月に行われた連合国軍の作戦。 連合軍がドイツ国内へ進撃するのに大きな障害であるオランダ国内の複数の河川を越えるために、空挺部隊を使用して同時に多くの橋を奪取する作戦であった。

作戦は途中のナイメーヘンのライン橋の占領には成功したが、アーネム(アルンヘム)での最後の橋は英軍の第1空挺師団が壊滅するなど大損害を受けたために奪取できず、最終的に作戦は失敗に終わった。
1944年9月17日〜9月25日


1944年8月、ノルマンディー・ファレーズにおいてドイツ軍に大打撃を与えた連合軍は、それまでの停滞した戦線と異なり急速な進撃を開始した。8月25日にはパリを奪還、9月4日にはイギリス第21軍集団揮下のカナダ第1軍がベルギー・アントウェルペン(アントワープ)を奪還していた。

この進撃速度は計画を大幅に上回るものであった。当時の連合軍の補給物資はコタンタン半島の先端の港湾シェルブールかノルマンディーの上陸地点を経由しており、イギリス海峡に面した他の重要な港湾は、撤退が間に合わず取り残されたドイツ軍が占拠しているか(ダンケルクなど。ダンケルクは1945年5月のベルリン陥落までドイツ軍が残存した)、あるいは撤退するドイツ軍によりクレーンなどの港湾施設が破壊され荷揚作業ができない状態にあった。連合軍の各部隊はその補給路の長さから来る燃料・物資の不足に悩まされることとなり、9月初旬には連合軍の進撃が停止する。このためイギリス海峡に面した港湾を確保し、新しい補給路を構築することが早期進撃再開のために必要と考えられた。アントウェルペンは世界有数の良港であり、クレーンなどの港湾設備が残存していたため、連合軍にとってイギリス海峡に面した新たな補給拠点になる重要な候補であった。しかし港湾設備の大半はスヘルデ川を遡上した内陸にあり、内水への航路上には水上機雷が敷設されており掃海の必要があった。唯一利用可能な河口域(オランダ領)の港湾施設はドイツ軍が排除されておらず、港湾としての機能が 果たせない状態にあった。河口域南岸のドイツ軍残存部隊にはカナダ第一軍が掃討作戦を展開中であったが、北岸のドイツ軍は手付かずの状況にあり、この地域のドイツ軍を残存させることはアントウェルペン港の完全開放にとってはやっかいな問題であった。

連合軍、特にイギリス第21軍集団司令官バーナード・モントゴメリー元帥は、ベルギー・オランダ方面に戦力を集中し迅速なドイツ国内への進撃を行うことが、ドイツを打倒するために最適であると考えていた。ラインの下流域でドイツ国境を突破し、ルール工業地帯を打通することでドイツの継戦能力を破壊すること、これがモントゴメリーの主張であった。これにはモントゴメリーと連合国部隊内における一番乗り競争に絡む名誉の問題、あるいはイギリスは戦争における人的資源の消耗が激しく、早期の戦争終結を求めていたことが判断の根底にある。この作戦が成功すればクリスマスまでに戦争は終結する。ただし、モントゴメリーには迅速な作戦遂行の経験が少ないこと、攻撃正面が狭く進撃部隊が比較的小規模になりドイツ軍からの反撃が予想されることから、連合軍内部で反対にあっていた。特に連合軍総司令官アイゼンハワー将軍は、ベルギー・オランダ方面だけではなくソビエトの東部戦線を含めた全戦線で攻撃をかけることにより、ドイツ軍からの反撃をおさえる方法を主張していた。そこで総司令部はモントゴメリーに対して、当初スヘルデ川河口域北岸のドイツ軍駐留部隊の排除のみを 要求していた。

折りしも、9月8日にV2ロケットによる初のロンドン攻撃が開始され、事態は大きく変化する。このV2ロケットは当時の技術では迎撃不可能であった。そのため、この発射を阻止するためには発射基地を破壊する必要があり、確実な発射阻止・ロンドンへの着弾阻止のために発射拠点と見られるオランダ地区を奪還する必要が生じた(なおV2に関する技術情報は事前に入手されていたことから、この推測には相応の妥当性があり、また確かに結果としてV2はハーグを中心としたオランダ地区から発射されていた)。

9月9日、連合軍総司令部はオランダの奪還を決断した。作戦地域には多くの河川があり、迅速な進撃のためには橋梁の確保が必須条件である。複数の橋梁を同時に確保するために空挺部隊を投入することとなった。作戦参加部隊は、第1空挺軍(3個空挺師団基幹)および英第30軍団(3個師団基幹)である。

マーケット作戦
マーケット作戦は第1空挺軍の五個師団のうち三個師団が投入された。主要な降下地点は3箇所。南部からアイントホーフェン、ナイメーヘン、アーネム。米第101空挺師団は英第30軍団の真北に降下しアイントホーフェンの北西ゾンとフェフヘルの橋を確保、米第82空挺師団はさらにその北東、グレーヴとナイメーヘンの橋を確保することとなった。最後の英第1空挺師団とポーランド第1独立パラシュート旅団はアーネムの鉄道橋と道路橋を確保するため、作戦地域の北端に降下することとなった。

アイントホーフェン地区にかかる橋は運河橋であり、爆破されても工兵による架設が可能であるが、ナイメーヘンとアーネムにかかる3つの橋は川幅も広く、ナイメーヘンの道路橋か、アーネムの道路橋・鉄道橋両方の橋が爆破されてしまえば作戦は失敗する。

マーケット作戦は「リフト」lifts として知られている三つの大きな作戦のうち30,000人を降下させる最大のものであり、歴史上でも最大の空挺作戦だった。英第1空挺軍軍団長・連合空挺軍副司令官のフレデリック・ブラウニング中将は前線で指揮をするため自らの司令部を第一陣の降下部隊(第82空挺師団)に加えた。


ガーデン作戦
ガーデン作戦は英第2軍の主力である第30軍団(機甲師団主力)が行う。彼らは、空挺作戦の開始と同時に国境を突破し、国道69号線沿いに北上し、作戦初日にアイントホーフェンの米第101空挺師団に合流し、2日目にはナイメーヘンの第82空挺師団に合流。遅くとも3日目あるいは4日目にアーネムの英第1空挺師団に合流すると計画された。さらに幾つかの歩兵師団を防御任務のために空挺師団と交代させ、出来る限り早期に空挺師団を他の任務に振り分ける予定であった。

現実には4日間の期間は空挺師団が補給無しで戦闘するには長すぎた。更に降下兵たちは効果的な対戦車兵器を持たなかった。しかしながら、この時点で連合軍司令部はドイツ軍の戦力が壊滅しつつあると考えていた。実際、アントウェルペンからシェルト川河口域南岸のドイツ軍排除に着手していたカナダ軍正面のドイツ第15軍のほとんどは装甲車両を持たず、すぐに退却するように思われた。したがって英第30軍団は国道69号線上で限定的な抵抗にしか直面しないと予想された。


今日マーケット・ガーデン作戦に対する見方は二分される。アメリカの歴史家はモントゴメリーの用兵を評価しない傾向にあり、一方、イギリスの歴史家はアメリカ軍の貢献を評価しない傾向にある。

アイゼンハワーはその死までマーケット・ガーデン作戦に行う価値があったと信じた。コーネリアス・ライアンはアイゼンハワーの発言を引用する。「...あなたがイギリスで何を聞いたか知らないが、イギリス人はアメリカ軍の指揮系統を理解したことはなかった。...私はイギリス人から賞賛の言葉は一言も聞かなかった。あなたもモントゴメリーのような人たちから賞賛の言葉を聞くことはないだろう。」しかしアイゼンハワーはこのような見解を彼自身の胸に留め、戦争の終了まで明らかにしなかった。

問題は作戦がライン川支流、ニーデルライン川とワール川に架かる両方の橋を占領、確保することを要求した点にあった。アーネムの橋の北端はかろうじて確保されたものの、ナイメーヘン橋はドイツ軍の手中にあり、英第1空挺師団は他の空挺軍、地上軍と希望もなく切断された。ナイメーヘン橋の占拠に成功しても、アーネム橋が得られなければ事態は好転しなかった。これはニーデルライン川を渡って空挺部隊を救援する必要を示した。そしてこのような不測の事態に対して許可される渡河計画はそもそも存在しなかった。

重要な橋の確保はその付近に降下が行われた場合直ちに容易に達成された。フェフヘルやグレーヴが正にそうであった。アーネムとナイメーヘンでは英第1空挺師団や米第82空挺師団の半日にも及ぶ徒歩やその他の努力にもかかわらず、成功の可能性はほとんど無かった。

ジョン・フロスト中佐の第1パラシュート旅団第2大隊はアーネム道路橋を巡る戦闘で失われたが、アーネム橋が唯一の渡河手段ではなかった。実際、作戦計画の段階でフェリーがドライエルで利用可能であることは確認されており、英第1空挺師団を支援するために計画の当初からそれを確保・使用することを想定していれば、救援作戦はより安全に展開されたかもしれない。

英第30軍団司令官ブライアン・ホロックス中将は作戦の別の方針を求めた。約25km西のレーネンにアーネム橋に似た橋があり、その橋はドイツ軍の戦力がオーステルビークの防衛に振り向けられていたためほとんど無防備である筈だった。実際その通りで、第30軍団がその橋を攻撃すれば反撃を受けることなく彼らはオーステルビーク西のドイツ軍防衛ラインの後方を確保できた。しかしながらこの時までに、ドイツ軍の継続的な抵抗が行われモントゴメリーはチャンスを掴み損ねた。

装備にも重大な問題があった。連合軍はドイツの装甲車両の配備が壊滅状況にあると見なしていたため、降下部隊に十分な対戦車兵器(バズーカやPIAT)が配備されなかった。ドイツ軍歩兵部隊はパンツァーファウスト、パンツァーシュレックなど強力な対戦車兵器が配備されたのに対し、連合軍の降下兵はドイツ軍の装甲車両の攻撃に対して逃げるか隠れるか、降下地点に設置した僅かな対戦車砲の支援攻撃を要請しなければならない状況であった。さらに通信装備の不調により部隊は各個に孤立し状況の把握が困難を極め、ドイツ軍の迅速な展開に対してつねに対処が遅れた。支援攻撃の要請や、英国本土から飛来した航空支援に対して地上から支援要請をおこなえない不具合から、好機を逸する不手際も発生した。

また、連合軍がモーデル、ビットリッヒ、シュトゥデントといった有能なドイツ軍指揮官に直面したことを考慮すべきである。連合軍が奮戦した一方、ドイツ軍はそれ以上に奮戦し彼らの火力は連合軍車両を撃破した。モーデルが2つの重要な道路橋の爆破を禁じたことは、結果として連合国軍にとっては、悪意に満ちた挑発行為となった。また急ごしらえの混成軍で、兵器も旧式のものが中心であったにもかかわらず、ビットリッヒ、シュトゥデントの防衛線は執拗に降下地点に圧力をかけ続け、連合軍の空挺補給・増援を困難にした。アイントホーフェン-ナイメーヘン間(地獄の街道)、ナイメーヘン-アーネム間(孤立地帯)を結ぶ「ただ一本の道」に側面攻撃をかけ続けることは英30軍団の進軍を妨げ作戦の達成をより困難にした。

連合軍はことごとく悪い選択を行い、好機は無視された。グライダー連隊の指揮官はアーネム橋南部に着陸し橋を速やかに確保するための小部隊を要求した。このことはアーネムで戦いの趨勢を変更する可能性があった。フロスト中佐の部隊は南岸からの支援により橋は両岸で完全に確保できたかもしれない。

イギリスでは、グライダー降下部隊である第52Lowland歩兵師団の指揮官イクウェル・スミス少将がアーネム、およびオーステルビークで苦闘するアーカート少将の英第1空挺師団を支援するためブラウニング中将に出撃を懇願したがこれは許可されなかった。スタニスラフ・ソサボフスキー少将は霧中での危険にもかかわらず降下を申請したが、これも拒絶された。

ナイメーヘンの橋が奪取された四日目、オールアメリカン第82空挺師団の果敢な渡河作戦によりアーネムへの道が開かれた段階では、ナイメーヘン-アーネム間のドイツ軍防衛線はまったくの空白状態であり、またアーネムの苦戦を知らされていた82空挺師団の将兵は英30軍団の即座の前進を確信していたが、この期待は裏切られた。慎重な進軍計画と無駄にされた時間はドイツ軍の再配備に費やされ、あとわずか10数キロに満たない友軍への道を塞ぐ結果となった。

最後に、そして恐らく最も重要なことはオランダのレジスタンスが連絡将校の戦死によりアーネムで連合軍と連絡が取れなかったことである。数百人の十分に武装され地理に詳しく決意を持った男女は、彼らの知識およびドライエル・フェリーと秘密電話網と言った二つの特殊装備で大きな助けとなっていただろう。ドライエル・フェリーはライン川両岸の戦力を統合することが出来たであろうし、秘密電話網はアーネム、ナイメーヘンを始めとした重要拠点の連絡を可能にしていたと考えられる。後者は特に重要だった。皮肉なことに、レジスタンスによって交換所が占拠されていた一般電話回線網は、戦闘地区全域において通話可能な状態で維持されていたのである。無線通信に頼らずとも、民家の受話器を取り上げ合言葉を告げさえすれば、英第30軍団と空挺部隊の最高司令部にフロスト中佐とアーカート少将がアーネムに於いて如何なる恐ろしい状況に包まれたかを伝えることが出来たはずである。

結局モントゴメリーはマーケット・ガーデン作戦を90%成功したとし、「私の偏見的な見方では、もし作戦が当初から援護され、十分な航空機、地上兵力、そして遂行するのに十分な資材が与えられていたなら、私の失敗や悪天候、アーネム地域に存在した第2SS装甲軍団にもかかわらず成功していたであろう。私はマーケット・ガーデン作戦を擁護することを後悔していない。」と語った。

しかし、オランダのベルンハルト王子はコーネリアス・ライアンに「私の国にはもう一度モントゴメリーの言うような"大成功"を実現させる余裕はない。」と語った。モントゴメリーはマーケット・ガーデン作戦の被害をアイゼンハワーに正確に報告しなかったが、作戦の詳細が明らかになるにつれアイゼンハワーはモントゴメリーを二度と信用しようとはしなくなった。彼はモントゴメリーに対して本来の戦略目標、スヘルデ川河口域北岸のドイツ軍の排除とアントウェルペン港の解放のみを命じた。スヘルデの戦いでは別に12,873名もの兵士の戦傷・戦死の犠牲により11月8日に達成され、掃海されたアントウェルペン港を経由した補給路は西部戦線に新たな補給を開始した。

なお、アーネムの橋は、1944年に連合軍の爆撃によって破壊されるが、戦争終結後速やかに架け直される。しかもそれは、ジョン・フロスト中佐に敬意を払い、当時のままの姿で復旧され、ジョン・フロスト橋と改名され現在に至っている。西部戦線はマーケット・ガーデン作戦の失敗により完全に停滞し、その冬のラインの守り作戦(バルジの戦い)、東部戦線の春の目覚め作戦を経て、45年3月にライン上流部でルーデンドルフ橋の確保に成功するまでライン川を越えることができなかった。



by Wikipedia

アメリカ合衆国
モントゴメリーが立てた作戦はこうなるという見本のような戦いだ。
 
アメリカ合衆国
連合国としては珍しく無茶な作戦だ。
モントゴメリー・・・。なるほど納得した。
 
イギリス
モントゴメリーは最高の指揮官だ。
 
アメリカ合衆国
何をバカなことを。モンティ(Monty)は馬鹿でエゴイストだ。


訳者注
モンティ(Monty)はモントゴメリーの愛称。
 
アメリカ合衆国
モントゴメリーはロンメルに敗れ、この戦いではモーデルにも敗れた。
 
アメリカ合衆国
モンティが勝てる指揮官はドイツにはいなかった。
唯一勝てるときは敵の10倍ほどの兵力がある時だけだ。
 
ドイツ
実際、モントゴメリーで助かった。モントゴメリーが相手なら楽勝だ。
 
アメリカ合衆国
アメリカがモントゴメリーを優遇したのは、イギリスの顔を立てただけだ。
能力を認めたわけではない。
 
アメリカ合衆国
モントゴメリーは全くひどい指揮官だ。
 
アメリカ合衆国
同意する。モントゴメリーはクソ野郎だ。


posted by 虚空に踊らん at 11:48| ヨーロッパの戦い