2011年08月27日

海外の反応 ロンメルの戦い 北アフリカ戦線(Battle of North Africa)(英語版)


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北アフリカ戦線は、第二次世界大戦において1940年9月のイタリア軍によるエジプト侵攻から、1943年5月のチュニジアの戦いにより、枢軸国軍の壊滅・ヨーロッパ本土撤退までを指す。エジプトからモロッコまで、北アフリカ北岸で行われた。
1940年9月13日〜1943年5月13日


第二次世界大戦の中でも非常に特異な戦場であった。砂漠地域での戦いであり、前線においては、その地形を利用した大胆な機動戦が行われた。その進撃距離は長いが地域は細長く、占領した地域が広域であろうとも土地そのものの価値は低く、地上戦だが補給は孤島に援軍を送るように困難であり兵站能力が極めて重要であった。また、全軍への補給に際しての、地中海の制海権、少ない港湾の能力、マルタ島の価値、制空権が地上戦に大きな影響を与えた。

同時に両軍の戦力や補給量の問題により、戦線が短時間で大きく移動した。このとき移動に活用された主なルートはその多くがかつてのサハラ交易路である。

アフリカで苦戦するイタリア軍への援軍として送り込まれたドイツアフリカ軍団の指揮官であるエルヴィン・ロンメル大将は、少数の派遣軍という劣勢な状態ながら地理・気候を利用した巧みな用兵で連合国軍と戦い「砂漠の狐」と呼ばれ、1942年6月22日北アフリカ戦線での働きが認められてドイツ国防軍で当時最年少の元帥となった。


1941年から1942年6月 ドイツ軍の参加とトブルクの攻防
1941年2月にイタリア軍支援のためにエルヴィン・ロンメルを指揮官とするドイツアフリカ軍団が編成され、リビアに派遣された。ロンメルは3月には本格的な反攻を開始し、4月にはベンガジを奪回、イギリスのオコンナー将軍を捕虜にする戦果を挙げた。

枢軸国軍はイギリス軍の要塞となっていたトブルクを包囲したものの、イギリス軍の抵抗とこれまでの戦いによる戦力の消耗などにより陥落させることはできなかった。イギリス軍はトブルクの解囲を目指し、5月にブレビティ作戦、6月にバトルアクス作戦を行ったがこれに失敗した。11月にクルセーダー作戦を発動しトブルクの解囲に成功し、さらに戦闘を重ね撤退する枢軸国軍をエル・アゲイラ付近まで追撃し、再びキレナイカはイギリス軍が支配した。しかしながら、補給物資の輸送拠点をトブルクにしか設けられなかったため、前線まで長距離の物資輸送を行なわなければならなくなり、イギリス軍の進撃は停止した。

一時、エル・アゲイラまで撤退した枢軸国軍であったが、1942年1月には反攻を開始した。1月29日にベンガジが枢軸国軍に占領されたため、イギリス軍はトブルクの西にあるガザラ付近に防衛線を構築することとした。 2月から両軍とも物資補給と戦力の補充のためガザラ付近でいったんは対峙する形勢となった。1942年5月26日に枢軸国軍はイギリス軍のガザラ防衛線に攻撃を開始し、激戦の末イギリス軍は敗北した。さらに枢軸国軍の攻撃が続き、6月21日にはトブルクが陥落した。


1942年7月から1942年10月 エル・アラメインの戦い
ガザラの戦いに敗北したイギリス軍は、エジプト領内に撤退しカイロの西、エル・アラメインに防御ラインを設定した。1942年7月1日には、ドイツ軍との戦闘(エル・アラメインの戦い)が開始されたが、ドイツ軍の戦力不足により戦闘はこう着状態に陥った。

1942年8月にイギリス軍はエル・アラメインの防御にあたっていたイギリス第8軍の指揮官にバーナード・モントゴメリーを任命した。モントゴメリーは早期反攻を否定し、戦力の充実につとめた。イギリス軍の反攻は1942年10月23日夜ライトフット作戦から始まり、さらに11月1日夜からスーパーチャージ作戦を開始した。この攻撃に枢軸軍は敗退し、リビアへの撤退を開始した。


1942年11月から1943年5月 チュニジアの戦い
1942年11月8日に連合国軍のトーチ作戦によりモロッコへ西方任務部隊が、アルジェリアのオランへ中央任務部隊が、アルジェへは東方任務部隊が上陸し、北アフリカの枢軸国軍を西から攻撃を開始した。いったんはヴィシー政権フランス軍の抵抗にあったが、アルジェリアのダルラン提督に対して説得工作を行ない、11月10日に在アルジェリア・ヴィシー政権フランス軍と停戦が成立した。1942年11月初めにはヴィシー政権フランス領チュニジア総督の承認により、現地でヴァルター・ネーリング大将を司令官としてドイツ第90軍団が編制された。東方任務部隊がイギリス第1軍に改称されアルジェリアから進攻し、これとドイツ第90軍団との間でチュニジア北東部において激しい戦闘が行なわれ、チュニス西方のイギリス第1軍を後退させることに成功した。12月10日にドイツ第90軍団は第5装甲軍に改組され、司令官はネーリングからハンス=ユルゲン・フォン・アルニム上級大将に交代した。エル・アラメインから退却したロンメルのドイツ・イタリア装甲軍は1943年2月16日に南部チュニジアのマレトに到着した。

枢軸国軍の反攻作戦は2月14日チュニス西方のイギリス第8軍に対し南から迂回して攻撃する計画の第5装甲軍の「春風作戦」が開始され、一方2月17日にドイツ・イタリア装甲軍によるカセリーヌ峠からアルジェリアのテベサに向かいチュニジア西北方の連合国軍を包囲する計画の「朝風作戦」が開始された。けれどもカセリーヌ峠の戦いで進攻が阻まれ、ロンメルの攻勢は失敗に終わった。2月26日にフォン・アルニムはチュニジア北部のイギリス軍に対し攻撃を開始したが、イギリス軍の反撃により終了し、守勢に転じることとなった。

この後、枢軸国軍は東西から連合軍の攻撃を受けることとなり、この戦いは5月まで続いたが、枢軸国軍の壊滅という形で戦闘は終結し、北アフリカ戦線は消滅した。



by Wikipedia

イギリス
北アフリカの戦いはイタリアが始めたものだ。ヒトラーの大きな間違いはイタリアと手を組んだことだ。
 
イギリス
イタリアは100万近い軍を投入しながら、自分では何もできなかった。この点はドイツに同情する。
 
イタリア
当時のイタリア軍は装備も劣悪で、士気も高くなかった。ムッソリーニに引きずられてしまったのだ。
 
ドイツ
我々はイタリア軍を支援して北アフリカで戦ったのに、この後、イタリアは連合国側について、我々に宣戦布告をした。同盟は日本とだけで十分だった。
 
ドイツ
北アフリカの戦いは、裏切り者のイタリアを支援するという無意味なものであった。
ただ、この戦いがなければロンメルという英雄は出なかったであろう。
 
アメリカ合衆国
パットンもこの戦いから戦争に参加する。イタリアはどうでもいいが、パットンとロンメルの戦いは非常に興味深い。
 
イギリス
北アフリカでの指揮官はモントゴメリーだ。モントゴメリーとロンメルの戦いだ。
 
アメリカ合衆国
モントゴメリー・・・?
アメリカ軍の指揮官はパットンだ。
 
アメリカ合衆国
行けー!パットン。


posted by 虚空に踊らん at 15:37| ヨーロッパの戦い