2011年08月19日

海外の反応 アリューシャン列島の戦い(アッツ島 キスカ島)(Battle for the Aleutians)(英語版)


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アッツ島の戦い(アッツとうのたたかい、Battle of Attu)は、1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ軍のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦闘である。山崎保代陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間の激しい戦闘の末に玉砕した。

日本軍は1942年(昭和17年)6月にミッドウェー作戦の陽動作戦としてアリューシャン列島のアッツ島をキスカ島と共に攻略、占領して「熱田島」と改称した。アッツ島には第7師団の穂積部隊約1,000名を配置したが、アッツ島部隊はアメリカ軍がキスカ島に上陸するという情報を受け、9月18日にキスカ島に移転した。しかしアッツ島を無人にするわけにもいかず、アメリカ軍の空襲に遭いながらも米川部隊2,650名が進出してアッツ島守備隊となり、飛行場と陣地の建設を開始した。

1943年になると、アメリカ軍はアッツ島への圧力を強め、時折建設中の飛行場へ空襲や艦砲射撃を加えており、アメリカ軍の上陸は間近と予想された。4月18日に守備隊司令官として山崎保代大佐が着任した。

日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜は27名で生存率は1パーセントに過ぎなかった。アメリカ軍損害は戦死約600名、負傷約1,200名であった。アッツ島の喪失によってよりアメリカ本土側に近いキスカ島守備隊は取り残された形となったが、日本軍はキスカ島撤退作戦を実施し、木村昌福少将率いる救援艦隊によって脱出・撤退に成功した。

キスカ島撤退作戦(キスカとうてったいさくせん)とは、昭和18年7月29日に行われた日本軍の北部太平洋アリューシャン列島にあるキスカ島からの守備隊撤収作戦のこと。キスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず日本軍が無傷で守備隊全員の撤収に成功したことから「奇跡の作戦」と呼ばれる。


7月28日、艦隊の気象班が翌29日は濃霧の可能性大との予報を出し、気象観測に出した潜水艦各艦及びキスカ島守備隊からの通報でもそれを裏付けられたため、木村司令官は突入を決意する。

敵艦隊との遭遇を避けるために南西方向から直接突入せずにキスカ湾を西側から迂回して島影に沿いつつ、7月29日午後0時に艦隊はキスカ湾に突入。濃霧の中の突入だったため座礁や衝突の危険があったが、突入直後に一時的に霧が晴れる幸運があった。一方で突入時に旗艦「阿武隈」が敵艦隊発見を報じ直ちに魚雷4本を発射、同じく「島風」も発射し全弾命中したが、目標は敵艦ではなく軍艦に似た形の島であったという。普段より晴れていたとはいえ当時の霧がどれほど濃かったかを示すエピソードである。

艦隊は13時40分に投錨し、ただちに待ち構えていたキスカ島守備隊員約5,200名を大発のピストン輸送によりわずか55分という短時間で迅速に収容。この際使用済の大発は回収せずに自沈させ、陸軍兵士には持っている小銃を投棄させて身軽にしたことも収容時間の短縮に繋がった。守備隊全員を収容後、ただちに艦隊はキスカ湾を全速で離脱。直後からまた深い霧に包まれ空襲圏外まで無事に離脱することができた。

艦隊は7月31日から8月1日にかけて幌筵に全艦無事帰投。気象通報に出した潜水艦もその後全艦無事帰投し、ここに戦史史上極めて珍しい無傷での撤退作戦は完了する。


救出艦隊の指揮を執った木村少将の戦術指揮には、高い評価が与えられている。特に1度目の出撃で、天候に利が無いと見て、各艦長の突入要請を蹴って反転帰投を決断したことが焦点となる。当時の海軍の状況は切迫しており、戦力として貴重な艦艇を無駄に動かす結果になることや、欠乏していた燃料を浪費してしまうこと、またそれによる上層部や各所からの批判なども当然予想されることであった。

また、活発化しつつある米軍の動きから、反転してしまえば二度と撤退のチャンスがなくなる恐れも充分に考えられた。それでも、作戦成功の可能性が無いと見て反転するという一貫性のある決断力は評価されている。実際、このとき突入を強行していれば、米軍に捕捉・撃滅されていたであろうことは、当時の米軍の展開状況から見ても容易に推察できる。

結果として二度目の出撃で、たまたま米軍が島の包囲を解いた隙を突くことになる。日本に都合のよい偶然が重なったことも事実であるが、木村少将の、霧に身を隠して一気に救出するという一貫した戦術指揮も大きく作用したのである。



by Wikipedia

西サハラ
アッツ島の戦い
アメリカ軍は15000人の兵力で、549人が戦死しました。
日本軍は2900人の兵力で、2874人が戦死しました。
捕虜はほとんどいません。
別の例をとってみると、バンザイ突撃の場合、200人以上の兵力であれば、相手を100人以上戦死させるか負傷させています。


訳者注
最初は何が言いたいのかよく分からなかったのですが、「西サハラ」ということを考えると、大戦中はドイツよりだったので、おそらく日本軍が勇敢で強かったということを言いたいのだと思います。
この人はビデオ3でも、キスカ島撤退作戦についてコメントしていますが、Wikipediaの記述とあまり変わりませんので省略します。
 
アメリカ合衆国
日本軍は何故、航空支援の全く考えられない島に兵力を送り込んだのか。
日本軍はこの事について全く考えが及んでいない。


訳者注
私も彼の考えには賛成です。アリューシャン列島の占領はミッドウェー海戦と同時に行われ、この占領のために、空母「隼鷹」(最大58機搭載)、「龍驤」(最大48機搭載)の2隻を派遣しています。本土空襲の危険を避けるため、アリューシャン列島の占領は理解できるのですが、占領後の防衛を全く考えていない。
せめて、アリューシャン列島の占領は時期をずらし、ミッドウェーに戦力を集中していたらと考えると・・・。
 
オランダ
Very cool
もっとたくさんいいビデを見つけてください。


訳者注
何が「cool」なのかはよくわかりません。


posted by 虚空に踊らん at 14:12| 太平洋の戦い